パレルモ・シューティング


<公式>
ヴェンダースの最近作ってぜんぜん見ていなかったからそうとう久しぶりだ。
ストーリー:デジタル技術を駆使して自在にイメージを作り上げる売れっ子カメラマン、フィン(カンピーノ)。しかし妻との離婚騒動もあっていろんなことに嫌気がさし、どこか死に魅入られていた。旧友のミラ(ジョヴォビッチ)の撮影のためにパレルモに飛んだ彼は、しばらく街に残ることにする。そこで妙なイメージに取り付かれて夢と幻覚と現実のまじりあった世界にはまりこむ。くり返し彼に矢を射かけるだれかがいる。それでも写真を撮り続けるフィンは、パレルモの名画「死の勝利」の修復を手がける美女フラヴィアに出会う。
デジタルで絵画のようにイメージを創造する写真家。しかもドイツ人。もちろんアンドレアス・グルスキーを思い浮かべる(2013年夏、ちょうど新国立美術館で展覧会をやってる)。彼の場合は日本語の翻訳「写真家」より原語の「光画家」といったほうが近いかな。映画の公式サイトでも監督自身グルスキーがモデルだといっている。
写真がデジタル処理されることに「本物じゃない」的な疑問をぶつけるのは、今となってはしょうしょう勇気がいることだ。かなりいまさら感があるからね。それなりの理屈を用意しておかないと、素朴な懐古主義者にしか見えないおそれがあるのだ。ヴェンダースはそっちタイプになりたくないと思うんだけど、でも彼は真っ正直に死神(というか人格化された「死」)にそれを言わせる。映画はフィルム撮りのデジタル処理。正直このあたりにヴェンダースがどんな問題意識をしめしたかったのか今ひとつわからなかった。

「死」はフィンに「自分のポートレートを撮ってくれ」と頼む。写真家は死を見据えた作品を撮っていくんだろうか。でもさ、そもそも写真って死を取り上げてきたメディアだよね。歴史的な写真の多く、特に報道写真はそうでしょう。海外の報道メディアサイトがカバーする中東あたりの紛争記事は【閲覧注意】が日常的だ。必要あるの? と思うけど、人のエモーションにフックしてクリックを誘う力は強力なんだろうと思う。そこにある死は人体の破壊であり喪失であり、人間が人間でなくなることだ。どちらかといえばネクロフィル的な視線だよね結局。
死のイメージが視覚芸術のモチーフになるのはもちろん珍しいことじゃない。「死の勝利」あるいは「死の舞踏」 はヨーロッパの古典絵画の定番の画題のひとつだ。仏教絵画でいえば九相図 (知らない人、ちょっとグロいですよ)があるし、いわゆる地獄絵図もポピュラーなお題だった。映画の「死」が人格化されているのも、「死の勝利」にあるみたいに古典的な表現なんだとわかる。擬人化されて一定の威厳と魅力をそなえた「死」が、自分のポートレートを撮ってと頼むのは、死を単なるネクロフィル的な(つまり、死体や、死体が発生する現場で表現する)視線で捉えらるんじゃなく別の意味を見てよ、ということかもしれない。映画の最初で、水が怖くてプールに入れなかった主人公は「死」によって海に叩きこまれる。水中に沈み、擬似の死を体験した彼は、遊戯的に死を求めることをやめて、来るべきほんらいの死にむけて生を完遂しようとするだろうか。

・・・的に、何か深いテーマを受け止めました風で書いてみたけど、実をいうとそんなに刺さってこなかった。なんか、「こんなポジションの映画」という置きどころが見える気がして、ジャンルムービーでもないのにどこか「型」すら感じる。ロックスターの主人公、実名で出るミラ・ジョヴォヴィッチ(本人の実世界での存在具合はよく分からない)、唐突に現れるルー・リードパレルモでふと出会う女性写真家は、マフィアを撮り続けてきたことで名高い。そしてもちろん、監督の旧友デニス・ホッパー…というような、話題に困らない感じのキャスティング。デヴィッド・リンチ感なのか悪夢イメージや幻覚っぽく現実が不吉にゆがむシーンのシームレスな挟みこみ。オースチンの古いオープンカーに乗り、ミニマルなデザインのビルにスタジオをもち、モード系の撮影をこなし、クラブに遊びに行く売れっ子カメラマン描写。これにはさすがにしょうしょう古臭いセレブ感を感じた。旅先での美女との出会いも、ものすごく常套句的で、まぁお話的にここらで美女とからめとこうか的な安定感を感じずにはいられない。そもそも「なにひとつ不自由のない成功者が、なぜか人生に虚しさを感じ…」という設定からして「これもありがちじゃね?」とついでにケチをつけたくなってくる。だんだんえらそうになって申し訳ないけれど、なんかね…。
ちなみにヒロインのジョヴァンナ・メゾジョルノのクールな美女ぶりは特筆にあたいする。ジョヴァンナ・メゾジョルノ。日本語に訳すと「若井まひる」みたいなものか。微妙にヅカ的な香りのする名前だ。