わが町


日活の解説サイト
この映画、ぼくにとっては、辰巳柳太郎の顔相と、川島雄三が描く大阪下町の路地・長屋の空間をめでる一本だ。出だしの、一面の瓦屋根が泣ける。天王寺区の生国魂神社の裏手あたり、寺町のふんいきだ。映画のなかでも長い土塀がつづく、寺町らしい景色がときどき出てきていた。正直、大阪の下町はまったく土地勘ないから雰囲気も想像だけど、いまでも不動産情報を見るとけっこう長屋物件が出てくるから東京よりもその手の現役建物は多いんだろうか。この素晴らしきサイトで今に残る下町感がつかめる。メインの長屋シーンは撮影所(日活だから調布かな?)のオープンセットだけど大阪ロケもやっている。下町のシーンもいくつかはロケ。主役の辰巳柳太郎、安定感のあるさすがの面構えだ。足がかなり短いのは時代か...
名作朝ドラ『カーネーション』に通じるところあるね。
ストーリー:明治時代のフィリピンで道路開削の難工事をやりとげた佐渡島他吉。海外で一旗あげたのが何よりの誇りだが、犠牲者がおおく何のメリットもなかったプロジェクトの評価は微妙だ。でも路地裏の住人たちは温かい。隣人の売れない落語家(殿山泰司)、床屋の女房(北林谷栄)は家族のような付き合いだ。男やもめの他吉は、訳あって娘、孫娘を育て、人力車を引きながら20世紀前半の日本を走り抜ける。
物語は明治末期から始まる。人々の和装も昭和と違う。二間の長屋は、西洋風のランプだけが近代の印だ。そこから時代は10年くらい下って大正末期になる。電柱が目立ち家には電灯がぶら下がり、イベントには写真屋が顔をだす。床屋もどことなくいま風だ。さらに20年、戦争中を一気に通過して戦後になると、いきなり他吉は大阪中心部の都市景観に放り出される。米兵を載せて老体でひーひーいいながら、向こうに見えるのはそごうデパートだ。孫娘の君枝も働く娘さんスタイルでさっそうと街路を闊歩する。ラストシーン、大阪市立電気科学館のプラネタリウムが有名だけど、これは心斎橋近く、四ツ橋にあった。
この映画、約40年の年代記だから、時代の変化を感じさせるための演出やディティールが当然もり込まれている。時代設定は原作のラストが1941年頃だったのを、映画では戦後に変えている。織田作之助の原作が書かれたのは遅くても戦後すぐだけど、映画は1956年だから、空気としては開戦直後をラストに持ってきたくもなかっただろう。面白いのは時代をくだるにつれて他吉をとりまく風景の範囲が広がって行くのだ。
その気になれば撮影時に明治の風景を探すのはできないことじゃなかったはずだ。1960年代の建築映画に映る大阪千里や京都の町を見てると、災害や戦争で破壊されていない町や農村の多くは、たぶん1960年代後半くらいまでは近世の雰囲気をけっこう持っていて、強烈な断絶はその後に来ているんじゃないかと思う。二川幸夫の写真なんかを見るとそれを感じる。
一度は海外に雄飛した男が、ふるさとの路地の片すみで人生を再開する。ミニマムな世界だ。娘がおおきくなると路地まわりの世界からなんばあたりの盛り場へ彼女の世界をひろげていく。そのまた娘がまたおおきくなれば、時代は戦後だ。近所も都市の中心部に変わり、他吉をおいて孫娘は都市住民になっていく。他吉は海外への思いをひきずり心は路地にこもる。昔のぱりっとした半纏姿じゃなく、よれたジャケットでとぼとぼあるく、時代に取り残された老人だ。絵本の「ちいさなおうち」じゃないけど、変わらない路地と対比して、周囲のドラスティックな変化をだんだんスケールを広げて見せている感じだ。皮肉なのは娘が働いているのはタクシー会社なのだ。人力車から仕事をうばう新しい交通システムだ。

電気科学館(大阪市立図書webギャラリーより)
監督は最初から他吉の人生のハイライトだった海外体験を、評価しない周りと対比させてどうも独りよがりらしいと匂わせ、最後は孫娘たちに人生を全否定させている。最初から彼は時代に乗れない、一人勝手でほめられない男なのだ。でもあの時代にはそんな男もいたんだ、とも監督はいう。
明治から昭和初期にかけて、海外に移民する日本人は数十万人いた。そういう人たちの不屈さというか強さというか粘りというか、ちょっと想像できないレベルだろう。ほとんどは農業とか土木の過酷な労働力だよ。軽く「苦労」とかいうのもなんだかためらわれる。映画の中のフィリピンは3世代に渡って男を呼び、あとにお腹の子を抱えた不安な若い妻を取り残す、そんな場所だ。そんなところで生きていく人々は、物分りが良くて柔軟に時代にあわせ、人づきあいも如才なく・・・なんてタイプだっただろうか。監督がいうあの時代は、少々付き合いにくいくらいに思いの強さがないと乗り切れない環境をいっているのかもしれない。
ゲストっぽいおじさん役で出てる、菅原通斉についてふれないわけにはいかないね(ま、知らなかったんだけど)。右翼と関わりが深いフィクサーでもあり実業家でもあり、20代で海外に出て事業を成功させて…という戦前の国際派だ。江ノ島の開発にかかわり、鎌倉山住宅地を生み出し、鎌倉山のわきを江ノ島に抜ける道路(むかしは有料だった)を開通させて、モノレールまで誘致した。ぼくが前に住んでいたあたりの風景をまるごと描き変えた人だ。鎌倉つながりか小津の作品にもいくつか出ていた。この人の人脈は、じつは今ホットな尖閣列島まで届いている。他吉の視野とどことなくつながるんだなあ。