エンター・ザ・ボイド


<公式>
ノエという監督は、観客に普通の劇映画を見るときよりも、もっと直接的な「体験」をさせたいと考えてるタイプなのかもしれない。結果的に体験として深く強く残るかはまた別。普通の劇映画だって一生忘れられないようなシーンがあったり人生観が変わるきっかけになったりといういことはあるだろう。ノエの場合はストーリーや世界観そのものを観賞して楽しむというより、スクリーンを見る2時間くらい、ある種の体験をさせることに比重をおいているみたいに見える。『アレックス』でいえば予期しない、前提になる情報もない状態で突然つきつけられる暴力。特殊な時間軸の構成がそのキーになっていた。この『エンター・ザ・ボイド』では、死後の一瞬、魂が見る(とされる)ものの追体験だ。視線がテーマになる。主人公ひとりの主観映像、しかもずっと連続しているみたいな映像でラストまで徹底するのだ。
『アレックス』もそうだったけど、ノエはキャラクターの口を借りて観客に映画のテーマ設定を説明する。「こういう見方してくれ」というね。最初に主人公が「死はヴォイド=虚無だ」「死ぬと天上から世界が見られるんだ」と妹に話しかける。そのあとジャンキーの友人が来て『チベット死者の書』について話す。「死ぬ瞬間に過去はフラッシュバックして、そのあと魂が光の子宮に入って転生するんだぜ」みたいな話だ。そのあとの映画はそのとおりに進むんだからはっきりいって相当な親切設計だろう。
ストーリーはちゃんとある。舞台は新宿歌舞伎町。主人公はイギリスから渡ってきた青年オスカー、それに妹のリンダ。オスカーはドラッグのディーラーで小銭をかせいでいる。リンダはポールダンサー、店のマネージャーのマリオとつき合っている。二人は孤児で、子供のときに強烈な体験にさらされた。ある晩オスカーは友達の頼みでクラブにドラッグを持っていく。ところがそれは罠で警察が手入れにはいる。トイレに閉じこもったオスカーは警察に従わず無意味な抵抗をしたせいで撃たれあっさり死んでしまう。・・・これが話の終わりじゃなく、スタート。

さっき書いたみたいに、カメラはオスカーの視線だ。とくに序盤は生きているときの視線だからオスカー自身は鏡以外ではほとんど映らない。強烈なドラッグでトリップするとその幻覚までが映像化される。カラフルな色の、けれど有機体めいたもやもやした物体だ。どのていどリアルなものなのか、ぼくにはさっぱり想像もできないけれど、とにかく『ラスベガスをやっつけろ』『裸のランチ』やProdigyの『Smack my bitch up』のMVでもあったトリップした人間の主観映像は、もっと「体験」に近い直球の方法でトライされていた。

オスカーが死んだ瞬間からカメラは真上の見下ろしになる。さっきのセリフどおりだ。たおれた身体からはなれて天上にあがったオスカー=カメラは夜の歌舞伎町を自在に飛び回り、壁や天井もぬけて街やひとびとを見下ろしはじめる。その間に、兄妹の幸せだった過去と一転した悲劇と別離、日本にやってきてからの日々が回想される。つまりフラッシュバックの部分だ。ここではオスカーのすぐ後ろにカメラがあって、彼越しに世界が観察される。後半はオスカーをうしなったリンダが中心になる。兄を失ってうちひしがれたリンダはやがて妊娠を知る。そしてマリオとホテルへ・・・
見下ろす視線って独特なんだよね。むかしある心理学者が人間にとって一番快適な位置は自分が見られないような場所からパノラマ的に見下ろせる場所だ、という説をとなえていたことがある。自分は安全なところにいて得られる情報量が多くて、生存上いちばん有利なポジションだから、というね。さすがにその説は今ではどうなんだ、とされているけれど、感覚的に快適なのはたしかだ。人というのはじつはめったに上を見上げない。歩いているときは5〜10°くらい水平から下を見るのがふつうだし、何か作業をするときだってほとんど見下ろしだ。だから上から見下ろしても下の人と視線が交錯することはほとんどない。ぼくたちは動物の群れを観察する生物学者みたいに、特権的なポジションから好きなだけ人のふるまいを観察することができるのだ。
真上から見下ろすこの映画の視線も、下でおこっている人間ドラマを距離をおいて観察しつづける。人間たちの視線がこちらに向くことはない。人間たちがなにをしているかというと、セックスだ。物語はおまけとしてのドラッグがあるだけでほとんどセックスをめぐるものだし、女たちはひたすらに性的な存在としてそこにいる。もちろんちょっとしたセックスをめぐる葛藤とかもあるけれど、映画はそのなかにどっぷり入り込むことはなくて、生物学者みたいにそれもふくめて上から見下ろしつづける。ラストはカメラは下に降りてきてラブホテルの部屋という部屋ではげみまくる人間たちを観察しつづける。そしてしまいにはもっと内側に・・・

この映画、舞台になる歌舞伎町の過剰にポップなライティングが映画のビジュアルのテーマになる。ほとんどのシーンは夜の街やさまざまな室内のそれぞれに人工的な光で彩られていて日中のシーンはほとんどない。生前のオスカーに街の模型を作っている友人がいる。彼はさまざまなビルディングを光のラインでふちどって、街全体をジュークボックスかピンボールの中か、CGみたいなカラフルな光の線描でみたす。主人公は魅入られたようにそれを見つめ、やがてその模型は実在の街そのものと渾然一体となっていくのだ。オスカーが妹を個室のパブみたいなところへ連れて行くシーンもあった。あれは実在なのかセットなのか、異様な密度の室内装飾が壁も仕切りも天井も埋め尽くしていて、それでいてポップだった。ホテルのシーンもひたすらにカラフルだ。とにかくオスカーが見つめるあらゆる空間は素材の実感みたいなものから遠くはなれてライティングと装飾によって浮遊した脳内空間みたいなものになる。そのビジュアルは最初のオープニングタイトルで強烈に宣言される。英語と日本語がまじった高彩度のロゴ風タイトルが音楽にシンクロしつつ高速度で切り替わるのだ。ここで「か、格好エェ…」とつかまれるかどうかでこの映画を好きになるかどうかきまりそうな気がするね。