トイ・ストーリー3


<公式>
いや、じっさい泣いた。『Cars』もよかったしなピクサー
ストーリー:トイ・ストーリー』から約10年、おもちゃたちの持ち主アンディは高校を卒業して大学に入るため家をでることになって、おもちゃたちは岐路に立たされる。捨てられるのか、屋根裏行きか、どこかへ寄付されるか。かれらはこの家での役目は終わったと観念して、保育園に新天地をもとめる。ところがそこは既得権益層のおもちゃが支配するデストピアだった。ふとしたことでアンディの気持ちはまだ自分たちにあったと気がついて、めくるめく冒険をへて家に帰りつくおもちゃたち。いつのまにか家にあるおもちゃに気がついたアンディはある決意をかためる…
いらなくなったおもちゃの末路の物語。最初からゴミのモチーフが前面に出る。おもちゃたちはいきなり黒ポリ袋にいれられるし、カラフルな世界の中でゴミ収集車だけ妙にリアルにサビや塗料の剥離が表現される。監獄となった保育園からおもちゃたちが逃げる唯一のルートはダストシュートだ。いってみれば一旦死ぬ(=ゴミ的立場になる)ことでしかその世界からは逃げ出せないのだ。村上春樹の『世界のおわりとハードボイルド・ワンダーランド』を思い出す。逃げ出せたかと思ったおもちゃはダークなフォースに足を引っ張られ、廃棄物処理場へ連れられていってしまう。そこにはリアルな死の現場がある。ここも住宅街のポップな雰囲気とは違う重く陰鬱なテクスチャーだ。そして、死を覚悟した、その瞬間の演出がおもちゃたちのクライマックスだ。よく考えると幼児もターゲットにしている映画なのに、よくここまで主人公たちを追いつめるよなぁと思う。
おもちゃたちは、悲しいくらいに自分の立場をわきまえている。彼らのほとんどは大人で「子供によりそって彼らを育てる」のが自分の仕事だとわきまえている。キャラクターたちが十分に成長した大人であるというところがディズニーらしいともいえるし(日本でこのコンセプトの映画があれば、おもちゃ界の少年少女の成長物語になるんじゃない?)、おもちゃの世界が大人の世界なのは、もちろん子供を映画館に連れて行く親たちにたいする目配せでもある。バービーのボーイ版が踊るシーンではちゃんとCHICをかけるしね。

さて、ディズニー映画だけにストーリーにやはりびしっと「倫理」を入れてくる。ここでそれを問われるのは、持ち主である子供だ。おもちゃたちが生きるも死ぬも子供次第、というふうに単純化されている。実はそこが巧妙に一面的になっているのだ。だって、子供の頃のおもちゃの末路を思い出してみてくださいよ。おもちゃはなぜ一線をしりぞきましたか? 古びて、うまく動かなくなって、色あせたりはげたりして、どこかが取れてしまって・・・じゃないですか? ただ飽きたから、というばかりじゃないはずだ。いらなくなったおもちゃを年下の子にそうそうあげられないのも、小さい子だって古びたおもちゃは分かるし、やっぱり新しいのが好きだからだ。
この物語では、おもちゃがよごれるのは乱暴な幼児に絵の具や食べ物を付けられたり、ゴミ捨て場でゴミにもまれたときだ。洗ってしまえばまるでCGみたいなつるっとした表面がよみがえり、いつまでもあたらしい。壊れるのも投げたり叩いたりされるからだし、捨てられるのは飽きられるか壊されたとき…つまりおもちゃたちは持ち主が大事に愛しつづける限り永遠によりそう存在で、悲惨な運命に放り出されるかどうかは持ち主の倫理の問題になっているのだ。
ひとつだけ例外的に古びて汚くなっているおもちゃがある。保育園のおもちゃのボスであるハグベアのロッツォだ。彼は子供に捨てられたというトラウマを持っていてそのせいで持ち主の愛情を全く信じなくなっている敵役だ。明らかに愛情を失った彼だけはぬぐいされない汚れと劣化が身体にしみつく。あとヘタレの電話おもちゃも古びていたけれど、あれはプライドと勇気を失っていることのビジュアル化で、ラストでハッピーになった時は新品同様になっていた。

ここで急に古くかつ狭い話にはまりこんでいくんだけど、これ見てたら1970年代の大島弓子の二つの漫画を思い出した(さすがに読んだ当時にすでにかなりの過去作品だったんですが)。ひとつは『F式蘭丸』といって、おくてな女子高生が想像で作り上げた全能の美少年が、実在しているかのように彼女を守り、はげまし、それでもリアルな世界では共生できないことを感じて同級生に彼女を託す話だ。世界にうまくなじめない少女の最良のともだちだった彼は、彼女が現実世界にすこしずつ混じっていけるようになったときに消え去らなければならない。。もうひとつは猫を擬人化した連作『綿の国星』の1エピソード。子猫の時に少女に出会った雄猫。彼は急速に成長して、少年として、青年として彼女とすごし、彼女は高校生なのに今や渋みがかった中年になってしまう。彼はどうやら自分が先に逝ってしまうことをわきまえている。いっそこのまま時を止めてやろうか…とも思うけれど、結局は彼女が同世代の少年と仲良くなっていくのを見守るのだ。もちろん彼女から見れば彼はちいさい、にゃあとなくかわいいペットだ……あれ、たいして似てないか?どっちも…?

この物語でのおもちゃは、そのものというより、子供時代の無限のイマジネーションの価値みたいなものじゃないか、とも思う。『くまのプーさん』とおなじだ(ディズニー版は知らない)。あれは親のミルンが語ったストーリーだけど、それが子供の中でいきいきとした想像の世界になっているから彼らもその中で動ける。おもちゃは、そのままではくたっとして表情が変わらない物体だけど、子供のイマジネーションの中ではいきいきとし、キャラクターを持つ事ができるようになる。ストーリー上は誰も見ていないところでうごくおもちゃたちだから逆説みたいだけど、じっさいは子供のイマジネーションという動力がなければおもちゃはうごけないし、だからこそ彼らは持ち主のところへ帰らないといけないのだ。
そしてラスト。アンディがおもちゃたちのキャラクターを自分の言葉で語る感動的なシーンになる。映画の設定かと思ったら、それはアンディのイマジネーションが彼らに与えていたキャラクターだったのだ。子供が自分のファンタジーを物語化できたことで、それはべつの子供にうけつぐことができるミームになった。それが受けつがれたからこそ、おもちゃたちは他の子供の家でまた生き続けることができるようになったのだ。