桐島、部活やめるってよ


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予告編や映画のビジュアルを見ていて、クレジット的には主人公あつかいの前田(神木隆之介)が、「目」の役なのかと思っていた。息を殺して、いやな関心が自分に向かずに一日が終わる…それだけを祈る、教室内の弱者。そんな弱者でありつつも、意外に透徹した視線で教室内の強者たちのうろたえぶりを見る、観客もその視線を借りてかれらを見る、そんな構図なのかな、とも思っていた。
でも実際は前田は視線の役というより、確固とした自分の世界を持っていて、それが他人からもわかるような、見られる、行動する側だったのだ。観客の視線を仮託するような「目」に相当する役はいないし、物語をひっぱる主人公もいない。だから誰かの視線を借りてほかの誰かに特別焦点をあてる、ということもなく、けっこうフラットに登場人物たちが出入りする映画だ。しいてニュートラルな観察者に近いといえば、教室内では強者側のイケメン・スポーツ万能系の宏樹(東出昌大)の方だった。
ストーリー:ある高校の初冬の数日のできごと。
よく似ている『エレファント』や『今、君がいない』みたいなカタストロフィが最後に投げ込まれることもなく、たとえば『告白』みたいな陰惨ないじめもなく、客観的にいえば日常のなかのちょっとしたもめ事レベルの事件しかおきないけれど、その分、ダイナミックレンジの小さな音楽を繊細に録音したみたいに、ささいなできごとや心の揺れ動きがすごく大きな振幅でとらえられてきわだつようになる。そんな映画だ。たしかにほとんどの高校生からすれば、エピソードレベルのあれやこれやが、日々それで頭が一杯になるくらい大きな悩み事だったり問題だったりするわけだしね。
このドラマはロケ地の学校えらびがけっこう肝だ。高知県の田舎の、広い斜面地に経つ高校。この空間が映画の中ではすごく重要な役割をはたしている。この映画はきついようでいてけっこう救いがある話で、登場人物たちの設定もあるんだけど(いわゆる弱者側の子たちは打ち込む何かをもっているし、それを共有する仲間たちがいる。孤立した奴は出てこない。強者側も必要以上に攻撃的になることもない)、それにプラスして、この田舎の高校には空間的にも逃げ場や隠れ場所が沢山あるのだ。

教室のシーンというのはわりと短い。渡り廊下や階段、校舎の裏、屋上、体育館、校門までの長い坂、そんなインフォーマルな空間で高校生たちが自分たちなりの身体の使い方をしている姿を描いている。教室というのは、というか学校教育というのがそうだけど、まずは身体の使い方を自分の好き放題じゃなくルールに沿って制限する、という場所だ。視線すら自由にさせない場所だ。そこから逃れられる所が多ければ多いほど、自分が生きられるニッチを求める弱者たちは救われる。
この高知の実在の高校は、余白とも言えるそういうスペースがすごくゆたかで、そのぶん映画も解放感がある世界になっている。生徒たちが空間を自在に行き来することで、普通の教室やグラウンドだけではなかなかない、ちょっと離れた所から見たり見られたり、というダイナミックな視線の関係が色々な所で使われている。それも高い所から地上にいる好きな人を見下ろしたり、逆に地上から屋上にいる重要人物を見つけたり、校舎の裏にいるとその下で密会しているカップルが思い切り見えたり、という3次元的な空間の使い方なのだ。『吠える犬は噛まない』を思い出すね。
高校の一時期、教室から脱出して昼休みにやすらげる場所をけっこう痛切にもとめていた頃があった。わりと大人扱いの高校だったから、3年になるとランチは外の商店街に食べにいっておっさんよろしく和んだりして息抜きをした。でも学校の中だとせいぜい図書館くらいしかなく、つくづくそういうアジールがほしかったよやっぱりね。それはそうと、フィクションだとかならず生徒は屋上で一息つくけど、現実の中学や高校って自由に屋上に出られるのかね?地上の校庭がなくて屋上だけがそうなってるようなとこは別だけど。手すりもない塔のてっぺんでサックスを吹く、というのはさすがにファンタジックだと思うけど、それ以外はどうなんでしょ。