雨月物語


<参考>
名作温故知新月間、はじまる(ひっそりと)。1本目はあまりといえば名作。名作すぎていまさら何か付け加える世界でもないんだけど、まあ。
で、こういう映画を見ると「日本の風景」ってたしかに変わったんだなとしみじみ思う。宮川一夫撮影による名シーンの多くがロケで撮られていて、たとえば琵琶湖畔のススキかオギの原や山間の質素な村などがごく自然な感じで画面に写しとられている。今、こういう映画を撮ろうとしても100%無理で、基本は画面の範囲をせまくしてなんとか絵になる部分だけ背景に取り込むか、『剣岳』みたいに原生自然が残っているとんでもないところまで行くか、あるいはもう海外で撮るしかないだろう。ゆったりとした広角の画面の中になにも余計なものが入らない、数百年前とおなじような風景が50年前なら撮れた(もちろんこの絵を見つけるまでに苦労はあっただろうけど)。この映画、未見の人が見るなら、まずその「日本の風景」を見てほしい気がする。

ロケ画面でもっとも美しいのは湖畔の芝生の草原で主人公の陶工源十郎(森雅之)ともののけである若狭(京マチ子)が敷物をしいて遊んでいるシーンかもしれない。完璧な位置に完璧な樹形の樹木が生えていて、その向こうに水面がある。この木と芝生はたぶん撮影用で(この環境で樹木はこういう形にならないはず)人工的な風景ではあるんだけど背景は本物。とにかくシュールなまでに隙のない構図だ。あとは有名な小舟でのみちゆきのシーン。メインはスタジオっぽい(トップの画像)がこれも出航シーンは自然の湿地でロケをしている。深い山や森の中なら今でもノイズのない風景に出会えるかもしれない。でもこういう水辺は今ほんとにないからね。近景ではよくてもぜったい背景になにか写り込む。
この背景のチョイスに、みごとにエイジング処理されたセットがすっぽりと馴染む。巨匠水谷浩によるセットは、黒澤の抽象的ともいえるセットとちがって、ボロ小屋のボロさ、貧相な屋根やくずれかかった壁のディティール、そのあたりに置かれた小物、それにほうぼうに散らされた雑草や灌木のすがたなどリアル方向だ。黒澤の一種舞台劇的な人物の立上がりはあまり強くなくて、人物はむしろ風景の中に生きている一要素みたいに感じる。監督の意図かカメラマンの意図か、単に撮影時期だけの問題か、自然風景は秋から冬の景色だ。ススキの穂が出て、木々は冬枯れのシルエット。たぶん風が吹き抜ける湖畔での撮影はそうとう寒かったはずだ。
あと、画面でいうとモブシーン(群衆シーン)に感心してしまう。そもそもエキストラの数が多いし、しかもそれぞれキャラクター設定されているかのように衣装もちがえば振る舞い方もちがい、とにかく画面の密度が濃い。そこに絶妙のタイミングでフレーム内への人の出し入れがあって、一つ長いカットの中でぐっとストーリーが進む感じなのだ。長いカットといえば小舟のシーンとならんで名高い、源十郎の帰還のシーン。ここは物語のエモーショナルなクライマックスでもあるのでくわしく書かないけれど(古典の名作でネタバレもないけど、一応ね)、トリッキーな撮影で現世からそのまま霊的な空間にスライドしていく、しかもまったく恐ろしいことが起こっているふうではなく、むしろほっとさせるような優しいシーンなのだ。この感じ、『惑星ソラリス』(オリジナルのほうね、もちろん)と似ているな。源十郎が最初に若狭の屋敷に行くシーンでもあって、最初に屋敷に入るときは廃墟風の障子もやぶれたあばらやなのに、廊下を進むと建具はあたらしくなり、庭はきれいに掃き清められ、いたるところに灯火があっていきいきとした屋敷にいつのまにか変わっている。
物語はとにかく哀切としかいいようのない展開。同時に説話風で、訓話の香りも強い。「金や出世にあくせくしないで地に足をつけて、家族を大事に」というメッセージで、しかもそれを田舎の百姓の女房である宮木(田中絹代)が滑舌のいい標準語でわかりやすく語る。しまいにはナレーションになってしまう。また終戦数年後という制作時期もあってなのか、武士階級は基本的にわざわいをもたらすだけの粗暴な集団として描かれる。村を壊すのも、不要な暴力をはたらくのも、農民の生き方をまどわすのも、権力をかさにきて主人公から金品をまきあげるのも、武士。武士道のりりしさなどはまったく描写がないのだ。
役者陣は、女優のほうが魅力的。田中絹代の「日本の母性」としかいいようのない存在具合、それにもましてもののけ若狭の京マチコの妖しくもどっしりとした重厚すぎる存在感。『蜘蛛巣城』『東京暮色』の山田五十鈴に匹敵する重量感だ。女優でこの重み。これもみあたらないよね今は。昔はよかった式の単純なノスタルジーでいうつもりはないんだけど(だいたいぼくから見ても全部歴史上の作品だし)、こういうキャタクターを再現できない時代になってるんだなあとは思う。風景と同じく、フィクションでも表現できることって時代の制約を受けるね、つくづく。