その街のこども 劇場版

<公式>
3.11。直接の被災地でない東京でも電車に乗れずに何キロも歩いて家に戻った人が何十万人といた。その後も前もって体験しておこうとして都心の勤め先から自宅まで何時間もかけて歩いてみた人もいた。まちを歩くということ。中高年レクリエーションの「まちあるき」とはちがう、深夜のまちを、いやおうなしに延々とあるくということ。『その街のこども』は、そうすることでもう一度「街」に向き合う物語だ。
阪神淡路大震災のとき小中学生で、そのごずっと東京でくらしていたふたりが13年ぶりの1.17の前日、神戸で一夜をすごす。ふたりともそれまで神戸に足を踏み入れることができなかった。美夏(佐藤江梨子)はある決意をもってここに来て、勇治(森山未來)は広島出張の途中で急に思い立って新幹線をおりる。三宮から御影の実家まで往復するという美夏に勇治はしぶしぶ付き合って、1月の夜ふけの神戸を歩きつづける。そんなはなし。
まっさきにぼくはその「距離」が気になった。ふたりの距離じゃない。ふたりが歩いた三宮から御影までの距離だ。公式HPにもだいたいのルートがのっている。それから地元の方が書いた「神戸つれづれ日記」にかなりくわしいロケ地ルートが乗っている。これを参考にさせてもらいざっとルートを落としてみた。ぼくのルート落としスキルが低いのもあるし(グーグルなんでこんなに扱いづらいのー!?)、たぶん風景重視で物語上の順序にかならずしも合っていなくてもロケ地を選んでいるところもあって、このマップのルートも、特に帰りはかなり適当だ。だいたい物語的にも最後は「走れー」とかいってかなりの距離をすっとばしてしまっているのだ。
さて、このルートだと往復で約20km。ぼくの経験からいうと、市街地をさくさく歩いて10kmが2時間かかる。20kmはちょっとした距離だ。ふたりはその前に居酒屋でけっこう飲んでいるうえに、美夏の実家は御影の山手で標高は130mくらいもある。勇治が最初「ありえへん」みたいに言ったのもむりもない。物語では終電が出てから出発し、5時46分のセレモニーに間に合うように帰ってくる。もちろん途中で休んでいるし、物語の大事なところではたぶん1時間以上歩くのをストップしているから、理屈っぽくなんくせをつければこの時間で往復するのはきびしい行程だろう。けれど、これだけの距離があるから、二人にとって神戸という町に10年以上をへて向き合うための儀式になるんだろうとも思う。

この物語は罪の意識とゆるしの物語だ。被災者が罪の意識からのがれられないということ。被災体験のないぼくにはそのリアリティは分かり得ないことだ。とにかく、二人のこどもたちは、その時、罪の意識を背負わざるをえなかったし、ずっと消えない意識が神戸の街からふたりをとおざけてきた。そういう風にこの映画は描かれている。
勇治は最初、罪の意識をみとめようとしない。そのせいで一度二人は決定的に理解しあえない相手としてお互いを見る。けれどじっさいに「その街」にやってくると、勇治もずっとのしかかっていた思いを吐き出さずにはいられなくなる。美夏は震災で親友をなくし、うしろめたい気持ちが消えない。ふたりにとって神戸にもどることは自分がせおってきた罪(と感じるもの)と向き合うことになる。
深夜のまち。これがたとえば昼の神戸だったらどうだろう。二人はもっと人々とふれあい、その営みを見て、言葉を交わして、そんなふうにまちに受入れられていくだろう。しかし深夜の町で出会うのはたこやき屋のおばちゃんやコンビニの店員くらいで、あとはだまって闇の中にうずくまる家々があるだけだ。二人は人というよりまちそのものに向き合うことになる。闇の中で眠っているように見えても窓の明かりはあるし、コンビニは普通に営業しているし、まちの生命がひしひしと感じられる。まちは深く傷ついた姿からよみがえりいきいきとした生命を見せることでかれらを受入れる。
一度だけまちの人との深いふれあいの場面がある。それがエモーショナルな意味での物語のクライマックスになる。けれどそのふれあいがテーマではないし、じっさいになにが語られたか、どんな表情でおたがいが向き合ったか、その場面はまったく描かれない。いくらでも泣かせの場面にできるところを作り手たちが抑制したところが、この映画全体に感じるディーセンシーのあらわれでもある。それでも主人公たちにひとつのちょっとした「前進」をはさみこんで、希望のみえる後味にしている。