山椒大夫


溝口代表作のつづき。とりあえず有名どころから見ている感がアレですが。古い説話を翻案した森鴎外の小説が原作で、昔話らしいシンプルなキャラクター設定によるシンプルな物語だ。平安時代のある国の国守を父にもつ家族が主人公、父は領民を守るために義をつらぬいて役職を追放され筑後に流される。何年か後、母(田中絹代)と厨子王、安寿の兄妹と姥の四人は筑後をめざして越中あたりからとぼとぼと旅にでる。ところが途中で人買いにだまされて母と兄妹は別れ別れになり、それぞれ売られた先で悲惨な境遇におちいることになる。その後の家族の流転と再会や別れがストーリーになっていく。父のゆるがない正しさが子供たちをささえてついには・・・まああれだ、昔話がネタなんだからストーリーを知っていても全然OKである。なんならこれでも読んどけや
映画ではこの原作からそれなりに翻案されている。森鴎外の小説自体が元の説話にあった残酷描写を除いた妙にヒューマンなドラマなのだが(説話では悪人はより残虐だし、因果応報の原則にもとづいてそのぶん悲惨な末路をとげる)、映画ではドラマチックにするためにか、ふたたび少しエグい方向に戻している。たとえば題名にもなっている山椒大夫(進藤英太郎)。右大臣の領地を経営するやり手の豪族めいた男で、ふたりの子供を買受けて奴婢としてこき使う悪役だ。説話では彼は復讐されて殺されるが、鴎外版では改心した風で彼もハッピーになる。映画ではその間をとった感じの運命をたどる。それから映画では鴎外版にはなかったような母親への無惨な仕打ちのシーンも付け加えられる。「昔話ベースの50年前の映画」にばくぜんといだいていた微温的なイメージで見ていたら、意外にエクストリームな残虐描写がそこここにあるのには軽くおどろいた。時代の精神というか当時はそこまで描き切るのがふつうだったのか、ちょっとわからない。さすがにエグいシーンをそのまま見せるような露骨なことはせず、声やまわりの表情で想像させている。
そのほか、人間ドラマの要素を足したり、鴎外版のちょっとご都合主義にも見える(昔話らしくもあるが)神仏のおみちびきでとんとんと道が開ける感じを、もうすこし物語的必然をもつように調整している。たとえば物語のキーとして厨子王が関白に出会い「ああ、あの義にあつい領主の息子か」となっていく場面があるのだが、原作では夢のお告げレベルでぐうぜん最高権力者に会えてしまうのにくらべると、映画は多少手順をふんでいる。
さてこの物語、基本的にはそうとう悲惨な話だ。一家はあまりにもきびしい運命にもてあそばれる。ひたすらに運命のはかなさが感じられる展開だ。昔話には「貴種流離譚」といって尊い身分のものが運命にもてあそばれるモチーフがあるけれど、それどころじゃないような気がする。例によって宮川一夫の端正な画面がそれを描き切る。作品中最高峰といわれる沼のシーンも、手前の木の枝でフレーミングして波紋の中心に自然に視線を誘導する構図の完成度にびびらざるをえないんだが、母が流された佐渡の海辺の景色も「今、日本でこの景色あるのか・・・?」といいたくなるような、日本的な海辺のようでいてストレンジな、なんともいえない風景だ。

役者陣では田中絹代が『雨月物語』ほどしっくりこない印象。奥方役より農民の妻のほうがはまるのか。それより厨子王役の花柳喜章が微妙だ(こういう評価はけっこう目にする)。そもそも身分の高い主人公にしてはいかにも高貴感がたりないのだ。ひとつは小柄すぎて全体にしめる顔の比率が大きすぎ、なんだかひょこひょこしてしまうのがあげられる。芝居も泣きわめいたり甲高い声で絶叫したり、感情移入しにくい軽い表現で、香川京子の凛とした美女ぶりが目立つだけに、どうにもバランスが悪いのだ。
で、よくいわれていることだがここに原作と映画の最大の変更点がある。つまり原作では安寿は厨子王の姉なのだ。ところが映画では妹になっている。説話としては母と姉がそれぞれに運命にむちうたれて犠牲となり、その分、童子のような厨子王はなにもそこなわれることなく救いをえる、その関係性はふにおちやすい。これが妹となると解釈がむずかしい。二人の関係性は妹の方がしっかりもので、兄を説得して行動させるところは変わらないのだ。
映画では原作にない子供時代のエピソードがある。同じエピソードが大人になってから繰り返されて、それをきっかけに厨子王が輝かしい時代の心をとりもどす、というお話になっている。子供の時は兄が妹をみちびき、妹は無邪気に兄を慕う関係だ。いつの間にか逆転して兄がみちびかれる関係になる。ただの妹萌えでないとすれば兄妹関係に変える理由はその部分につきるだろう。安寿の成長がよけいにきわだつようになるわけだ。じっさい配役もふくめた映画全体の印象として兄の凡人性と妹の美しすぎる超越性を強調しているようにも思える。