アニー・ホール


<参考IMDB)>
もう古典かな。1977年公開。アカデミー作品賞を受賞して、アレンの「授賞式に出ないでクラリネット演奏」伝説をつくった一本だ。で、この作品、あらためて見ると撮り方もテンポもじつに古くない。トリッキーで、画面合成も使ったりしていて、そういう作品は映像テクノロジーの洗練につれて古めかしく見えたりするものだけど、そういう感じもない。70年代風のファッションやヘアスタイルもむしろお洒落。
映画はアルビー(ウディ・アレン)の独り語りからはじまる。漫談スタイルでカメラに向かって、アニー(ダイアン・キートン)との別れと、中年になってきたなげきをうったえる。そこから自分がいかにこういう性格になったかを子供時代までさかのぼってドラマがはじまる。友達の友達的に出会った二人はすぐに気が合って、たちまち同居するようになる。出会いではアニーがアルビーを気に入り、トークはうわずり、それでもぎごちなく自分の部屋に誘う。このあたりいい芝居。ところがアルビーがすぐに「ラブという言葉じゃ足りない」とか舞い上がりはじめるとアニーは「自分の気持ちはよくわからない」なんて言い出す。そこから気が合っているようですれちがって、という恋のなりゆきがはじまる。
よく言われるけど、この映画のスタイルは後の映画やドラマに影響をあたえた。そのひとつが30年後の『500日のサマー』だ。恋のおわりを最初に見せておいて 時間軸を入れ替えながら、 幸せな出会いからふたりの心がうつろう経過を丹念に描いた構成、ストレートなドラマだけじゃなく、心象風景やアニメの挿入、スプリットスクリーンなどをつかって複合的に語っていく話法。二人の関係を男目線からだけ描いて、女心を「わからないもの」としてしまうところも。サマーもアニーも男に「愛してる」とはけっして言ってくれないのだ。

本作の特徴は、スクリーン内の架空の世界とこっち側のリアルの世界の間をアレンが橋渡しするところ。芝居の途中でアルビーがアレンにもどって、カメラにむかって「と、いうわけでしてね」と話しかけるシーンがすごく多いのだ。切替わりもスムーズで、これは出演=演出=脚本なのが貢献しているだろう。もともとスタンダップコメディアンだったアレンの独り語りがどんどん拡大して、他の役者もつかったドラマ映像になっているといってもいい。最後はアレンの語りの中に回収される構造だ。ドラマの中でも喋りつづける口調はコメディアン期そのまま。そのころの映像を見たことがあるけど、さえない表情で突っ立ったまま、落着かなく手を動かしながら服のポケットに手を突っ込んではまた出して、しょぼい口調で高速ギャグをとばしつづける。
アルビーは楽しさや喜びを感じられない症状を持っていて、ずっとカウンセラーにかかっている。だからアニーが「愛してる」と言わないように彼はけっして本気で笑わない。そんな人間がだれかを愛しようとしても充足感がえられるはずがない。アルビーは田舎娘だったアニーを援助して教養をつけさせ、あこがれだったショービジネスの世界への足がかりをつくる。アニーはそれを踏み台にして、本来の自分にふさわしい能天気で明朗な世界へすたすたと歩き去ってしまう。女性は大きく成長して飛び立っていき、男はそんな女に距離を感じながら、自分は変われずにけっきょく出会う前の世界に舞い戻る。そんなお話だ。
この映画、この時代だなあ、と思わせるひとつは、とにかく濃い顔の脇役がいいスパイスになってるところ。たとえばアルビーに労働者風の二人が「お前テレビでてたよな?」と話しかけてくるんだけど、その男がどこで見つけてきたんだというようないい顔だ。それから、アルビーがデートする骸骨フェイスのスピリチュアル系女。その波に巻き込まれて、音楽プロデューサー役のポール・サイモンサイモン&ガーファンクル)も、ムード歌謡風のもみあげずんぐり親爺みたいな面白キャラの一員になってしまっている。・・そういえばアニーの兄の自殺願望がある青年役で若い頃のクリストファー・ウォーケンが出てくるけど、あの無表情もいい顔キャラの一員だ。逆に同じちょい役のジェフ・ゴールドブラムはなかなか苦い顔でいい男風。