ロング・グッドバイ


<参考>
1953年に出版されたレイモンド・チャンドラーの原作を1973年に映画化。監督はその少し前に『M*A*S*H』をヒットさせたロバート・アルトマン。音楽はアメリカで映画音楽といえばこのひと、のジョン・ウィリアムス、主演フィリップ・マーロウエリオット・グールド。アルトマンはリー・ブラケットの書いた、原作とは結末をがらっと変えた脚本を気に入り、この結末でいけるなら監督を受ける、とOKしたらしい。
この映画、公開時は原作ファンの非難をそうとうあびたらしいけれど、もちろん今ではハードボイルドのクラシックだ。70年代のLAを背景に、よけいな描写をはぶいた格好よさはもちろん、主人公マーロウの「こういうタイプのクールさ」の発明で映画史的にはもう十分だろう。 アルトマンは原作のマーロウからわかりやすい熱さやヒロイズムを取り去って、なんともゆるいクールさみたいな雰囲気をたたえたキャラクターを造形した。『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』のベルモントがモチーフのひとつだと思うけど、そこにアメリカ的リラックスとよれよれ感がくわわって、しかも原作でも特徴になってるへらず口が映画ではよりギャグっぽくなっている。村上春樹の初期作品がチャンドラーの影響で書かれているのは有名だけど、減らず口のテイストはむしろこの映画に近いような気さえする。それから原作のマーロウはハードボイルドの主人公らしく、何度かファイトシーンで格好いいところを見せるが、映画のマーロウはまったく暴力をふるわない。だから1度だけ彼が暴力を行使したときの怒りみたいのが伝わってくるのだ。ちなみにコーエンの『ビッグ・リボウスキ』はチャンドラーものの影響が濃いといわれてる。見比べるとおもしろい。リボウスキのリラックス感はこの映画の主人公像の先にある極北みたいなものかもしれない。

しかしこの主人公、あまりにひょうひょうとしていて観客にも本音がつかみきれないところがある。ハードボイルドは主人公の内面を描写しないのがお約束、とはいうけれど原作ではけっこう思いは説明されているのだ。つかみきれないと言えば話の筋も原作からかなり単純化されて、とうぜんばっさり刈り込まれて、トータルでいうとちょっとつかみづらくなっている。原作ではていねいに説明されている、マーロウをめぐる友人(=犯人?被害者?逃亡者?)とヒロイン(マーロウのクライアント)の関係が、映画ではほとんど説明されないのだ。さっきも書いたように原作の舞台は1950年代前半で、キャラクターたちは戦争の記憶を色濃くもっている。もちろんアメリカだから「従軍」という、どこかヒロイックな記憶だ。それが二人の関係に影をおとし、ぎゃくに別の絆をつくりあげるきっかけにもなった。映画では70年代なのでそこは一切なくなって、求め合う二人は、たんなるエゴイスティックなひとびとになっているフシもあり、メインの犯罪の意味も見えづらくなっている。それよりはアルトマンらしいというのか、主人公の周囲に現れる奇妙なひとびとの描写に力がさかれているようにも見える。ところどころ「あれっ?」といいたくなるような奇妙な人物が画面をよこぎる。マーロウの家の隣人たちからはじまって、監獄の連れ、医者、ギャングとその愛人、病室の同室患者。
ショート・カッツ』では、特に男女のセックスを、それこそ動物生態映画みたいに突き放して描いていたアルトマン、この映画ではそこまで突き放さず、もう少し普通の距離感で、マーロウに寄り添った視線で撮っている。そのかわりといったらなんだけど、ほんものの動物の演技がいやに達者だ。最初は映画オリジナルの飼い猫のシーン。ひとりぐらしのマーロウがいつものキャットフードをねだる飼い猫のために苦労する、マーロウのキャラクターがよくわかるシーンで、猫がじつに上手くしつけられている。次にやたらと吠え付く犬が出てくる。飼い主が大変なことになるシーンで無力にうろうろする姿は立派な演技だ。そして極めつけはマーロウが捜査にいったメキシコの田舎町。マーロウの乗った車をカメラが追っていくと、あまりといえば絶妙な位置とタイミングで野良犬カプ〜ルが・・・始めてしまうのだ。それをとらえたカメラはごく自然に二匹をフレームの中央にもってくる。あまりにもアルトマンっぽいシーンだが、あれはいわゆる「映画の神様」が降りてきた瞬間なのか。