歩いても歩いても


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2008年の公開。この年、日本は家族映画の当たり年で、キネマ旬報ベスト10の1位『おくりびと』2位『ぐるりのこと。』4位『トウキョウソナタ』、そして5位がこの『歩いても 歩いても』だ。滝田洋二郎橋口亮輔黒沢清是枝裕和などの(滝田は微妙だけど)作家的な監督がそろってホームドラマを撮った。ちなみに『ゆれる』は2006年、『紀子の食卓』が2007年、『サマーウォーズ』は2009年。
家族の崩壊的なことが言われだしてずいぶん経つ。いつも言われているといってもいいくらいだ。家族の形が変われば、前の時代の家族像にノスタルジーがある人はなにかが失われたと言ってなげく。今言われるのも、ある部分そういうノスタルジーだろう。こういういい方は社会だろうと風景だろうと学校だろうといつもある。プラスするとすればモンスターペアレンツとか育児放棄とか『普通の家族が一番怖い』(2007年出版)で明らかにされた家族の食の崩壊とか、家族システムに当然あるとされていた暗黙の共通項の喪失が言われるようになる。そんな空気に反応して、ある作家は「崩壊」そのものを描こうとし、ある作家はそもそもの家族の虚構性みたいなことを描こうとし、ある作家はほとんどファンタジックともいえるノスタルジーにみちた家族像を見せようとする。じゃあこの映画は?

さて、映画はまず「食」から入る。わかりやすすぎるくらいに、母から娘に受け継がれる食の伝統を、古い台所を舞台にたんねんに描く。料理自体はよくあるわが家の定番料理だ。それを年に1度あるかないかの子供と孫の実家集合のために母親は作る。慣れた手つきの手元アップやざっざっと水を切られる素材なんかが食品CM風に見せられる。ここでちょっと「あれっ、こっち方向?」とやな予感がした。ひょっとして「おいしい映画」タイプなのかと。『かもめ食堂』的スローフードへの回帰とほんのりしたライフスタイル讃歌みたいなあれですよ。『かもめ』は別にきらいじゃないが。「おいしい映画」予感はさいわい的中しなかった。「食」の映画であることはまちがいなく、映画の前半は登場人物たちがひたすらなにか食べたり飲んだりする。彼らはどう見ても腹一杯を超える勢いで食べていて、見ているほうも妙な身体的満足感を共有させられることになる。ノスタルジックな古い家に家族があつまって、ひたすら食を通じて一体化儀式をする、このへん『サマーウォーズ』に似ている。しかし実像はちがう。この家族は全員あまり仲が良くなく、食卓を囲んでもとげのある言葉の応酬ばかりなのだ。
この映画『レイチェルの結婚』と構造的に似ている。過去に家族が一人失われていて、のこされた家族全員いつもそのことに呪縛され、いないはずの家族がかれらの上で圧倒的な存在感をはなつのだ。久しぶりの集合が、それを浮びあがらせる。『レイチェル』とちがうのは、だれ一人その喪失への罪悪感を持っていないことだ。そのかわり全員がそれぞれの被害者意識を持っている。だから『レイチェル』みたいな責めと贖罪みたいな構造にならず、ひたすらじぶんの立場から恨み言をぶつけ合うだけだ。これはすっきりした解決になりえない。なるとしたら全員がなんとなく納得して昇華する、というようなことだけだろう。観客も納得するようにそれを描くのは相当むずかしいんじゃないか。下手なヒューマンドラマだと強引にそっちに落とし込む可能性もあるが、さすがにこの映画ではふみとどまり、喪失感を抱き続けながら生きるしかない姿を描くことになる。そんななかで、だれでもどれかは思い当たるような苦めの家族エピソードが連打される。観客に自分の体験に引き寄せて入り込んでもらおうということでもあるだろう。ただなんというか、ちょっと・・・類型的なネタのパッケージという感じがある。
監督が描きたかったのは、「おとなだって承認されたい」ということなのかもしれない。家族それぞれが子供のように、承認されないことへの恨みをつぶやくのだ。父(原田芳雄)はわが家が「おばあちゃん家」といわれることを気にし、息子(阿部寛)は子供時代の自分のエピソードが兄の手柄になっていることにこだわり、息子の嫁(夏川結衣)は夫だけで自分用のパジャマが用意されていないことに傷つく。母娘(樹木希林・YOU)は、ある程度年齢のいった母娘がしばしばそうなるように奇妙な同盟関係を築き「承認されない側」にはいりこむことを回避する。必然的にこのふたりはわりと攻め受けでいえば攻めるほうの芝居になり、画面内でよく目立つ。しかし絶賛されている樹木希林の、腹に黒い物がわだかまっているおばあさんの演技、西田敏行的な「うまい芝居している感」が少し過剰に感じてしまった。
ノスタルジックな風景とか、おいしいシーンとか、昔風の衣装とか、聞き心地のいいBGMとか、どこか様式っぽくある雰囲気を出していると思うんだけど、その雰囲気の方向性があんまり自分のタイプじゃないということかなあ。まあ好みの問題ですね。
撮影は京浜急行が映る、三浦半島のさまざまなところでロケーションしている。三浦海岸側がメインで、久里浜近くの墓地から東京湾が見える。その一方で西海岸の秋谷近くのバス停や、葉山町内の階段などが映る。同じ場所の設定で西側の海と東側の海がつかわれてるのはなんだか不自然な気がしたけれど、それいうのはアレか、三浦半島住民だけか。