インヒアレント・ヴァイス


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ストーリー:1970年代前半、LA。ヒッピー丸出しの私立探偵ドク(ホアキン・フェニックス)のところに昔の彼女シャスタ(キャサリン・ウォーターストーン)がやって来る。いまの愛人、大金持ちの不動産屋の周りで妙な陰謀があるらしいのだ。偶然のように別の依頼者が口に出した名前はまさにその不動産屋だった。怪しさ満点の現場に行くと、案の定誰かに後頭部を思い切り殴られて、ドクは昏倒する。目を覚ますと天敵の市警刑事、ビッグフット(ジョシュ・ブローリン)がいた。死んだはずのミュージシャン、コニー(オーウェン・ウィルソン)や変態じみた歯科医、昔ちょっと縁があった別の金持ち、それに麻薬を扱う組織....奇妙な連中がうようよし始め、事件の全貌は霧の中、おまけにドクの頭の中もマリファナの煙でぼんやりしている。それでもあっちへこっちへドクは駆け回る.....

この映画、じつは前の『はじまりのうた』より先に見ていた。でもマリファナならぬ睡眠不足でぼんやりした頭で見ていて、1回落ちかかった時、となりのカップルの女の人が小突いてくれたような気がするんだけど、あれはぐうぜんなのか親切なのかうざかったのか錯覚なのか、いまだにそれもわからない。ていうくらいのレベルで、たぶんほとんど見逃してはいないはずなんだけど、あとから読んだ原作のシーンと映画のシーンと区別がつかなくなってるのは事実です。

おおまかにいえばLAが舞台の犯罪モノで、私立探偵が小突かれたり銃をむけられたり美女にいいよられたりくされ縁の刑事とあれこれ絡んだり……という典型的な道具立てだ。このブログでいえば、古典『ロング・グッドバイ』『チャイナタウン』、その世界をアップデートした『ビッグ・リボウスキ』『ブラック・ダリア』なんかが思い浮かぶ。あるいは70年代犯罪モノ風の『ジャッキーブラウン』とかかなあ。主人公ドクは形どおり、わけあり美女がもってきた話から事件にはまりこんでしまい、ダンジョンみたいな事件の全貌を手さぐりでたどっていく。お金持ちの不動産屋がちらつくのもお約束だ。
……なんだけど、いまひとつすっきり話は入ってこない。そもそも出来事も関係者もおおすぎるのだ(「正統派」でもそういうのあるけどね)。原作はもっと極端にしていて、読者の混乱は承知の混沌ぶりなんだろうけど、もはや初めての街をさまよっているなみによくわからない。いや、いちおう整理はされてますよ。謎は少しずつ明かされるし、ストーリーに何本かの「筋」は通してある。ピンチョンにしては軽くて読みやすいというのが訳者のコメントだ。映画ではそこからさらに整理してシンプルにはしてある。
それでも、まっすぐ事件の解決に向かうみたいな方向性がはっきりしたお話じゃない。序盤の最大のなぞ、失踪した金持ちの件は、途中で解決してしまう。金持ちの件は結局単なるマクガフィン(お話をひっぱるためのたんなる目的)で、かれは群像の1人にすぎなかったのだ。全体にそうなんだよね。ドクが追う事件は観客(や読者)についてきてもらうための乗り物で、作品自体は「この複雑な世界」をポップな70年代初頭の西海岸カルチャー視点で切り取ってみたものなんじゃないか。とはいっても「複雑な世界」の世界観が壮大に描かれるわけでも、なにかとんでもないところへ話がでかくなっていくわけでもない。物語のスケールはドクやビッグフットたち現場レベルが対処できるくらいの範囲。ある意味おなじようなレベルをあちこちさまよっている感じもする。だからトータルではすこし平坦な印象もなくはない。

物語はほとんど原作から変えていない。途中のエピソードも、大事なところはだいたいおさえる。回想シーンまでちゃんと。刑事ビッグフットがリトルトーキョーの食堂でパンケーキを食べるのも凍ったチョコバナナをなめるのも原作どおり。写真家のふりしてパーティーに潜入したドクが撮った集合写真が「最後の晩餐」風なのも、ちゃんとそう書いてある。作品のテイストは、まあ軽妙ではあるけど、別に笑う映画じゃなかった。ここポール・トーマス・アンダーソンは巨匠化してどうにも重厚な作風にシフトした、って書いた。本作は前2作とくらべればポップだ。でも初期の『ブギーナイツ』『パンチドランクラブ』的な、なんというかかわいい作風じゃないなあ。この70年代風予告編なんて見ると、『ブギーナイツ』でやっていたパスティーシュ的な映画なのかなとも思えるけど、そっち方面というわけでもないのだ。ジャンル映画風でありつつ「ん?なんだこれは」となるあたり、一番近いのは『ビッグ・リボウスキ』かもしれない。噛みごたえはあります。何回か噛める感じのね。

1960年代の、革命の予感というか、自由への希望というか、カウンターの席巻というか、そんな期待がオールナイトのイベントが終わった朝みたいにしらじらと蒸発した時代。もちろんぼくは文学や映像みたいな創作物経由でしか見てない。まっただなかにいた人はそんなふうにたぶん感じたんだろう。ちょうど『ラスベガスをやっつけろ』原作のトンプソンがリアルタイムで描いた空気だ。カウンターカルチャーの代表であるサイケデリックな音楽も、ちょっと尖ったポップミュージックとしてふつうに商品化される。スピリチュアリズムもサイコセラピーも目端のきいた連中に取り込まれてコンシューマーむけのサービスになる。フリーに生きていたはずが行政に裏で飼われるやつもいる。いやそういうことだけじゃないかもしれない。カウンターカルチャー側の人間だって全員が〈マネーも政府もないユートピア〉の信者だったわけじゃないだろう。
主人公ドクだってそうだ。まわりにいるのはフリーダムな感じの人たちだけど、彼は付かず離れずで警官ともつきあうし、女検事に頼んで資料だって見せてもらう関係だ(まぁセフレだけど)。必要なら怪しいビジネスマン風にもなれる。彼らのロジックもふるまいもひと通りわかってるということだ。見た目はフラワーなシャツに不思議長髪、もみあげと一体化したほおひげのスクエアと真逆紳士だけど、ナイーブに理想世界を夢見る人間じゃないのだ。ホアキン・フェニックスはとろーんとしつつも成熟したもののわかった雰囲気で、原作(まだ20代の設定)よりさらに大人の主人公にぴったり合っている。つき合いのある弁護士役でベニチオ・デル・トロがでてくる。これも原作よりはだいぶおっさんだ。ひょっとすると『ラスベガス』オマージュかもしれない。主演ジョニー・デップをほとんど圧倒していたデブでクレイジーな弁護士のね。