ナッシュビル


<予告編>
ロバート・アルトマン1975年の作品。アルトマンといえば群像劇というくらいだけど、24人の主要キャラクターが出てくるこの作品は、そうとう群像劇指数高めだ。だれかが突出するでもなく、脇役すぎて忘れられる人もなく、エンディングまで並走する。最後に拡散していた登場人物たちが水の流れみたいに一カ所に集まってくる。一発の銃声がなりひびいた瞬間、物語は一点に凝集して、ふたたびまた拡散してエンディングをむかえる。ピースが集まってひとつの絵になる瞬間はなかなかの気持ちよさだ。(当ブログのこの監督作品は・・・

映画はテキサステネシー州ナッシュビルのミュージックシーンと、この街にキャンペーンにやってくる大統領選挙の候補者キャラバンと、そのまわりに集まるひとびとを描く。ストーリー自体はそんなにこみいっていない。候補者がナッシュビルにやってきてから、5日後にキャンペーンイベントのライブを開くまでの5日間の物語だ。「複雑な群像劇は時間を短く区切った方がいい」というセオリーそのままだ。

この物語は成功者とワナビーたちの対比の物語ともいえる。成功者たちはメジャーになったミュージシャンやショービジネス界の住人たち。ワナビーたちは成功者がいるところ、あっちに顔をだしこっちで売り込みそっちで声をかけ、かれらのまわりを彗星のようにめぐる。成功者の筆頭はナッシュビルミュージックシーンの重鎮ヘヴン(ヘンリー・ギブソン)。この存在具合がじつにいい。チビで珍妙なウエスタン衣装(たとえば上下白に金ラメ)を着てヅラをかぶっているんだけど、そこから想像されるほど間抜けじゃない。大統領選スタッフに協力を頼まれても簡単に返事をしない。けっこう頭が切れそうな感じなのだ。

突っ込みどころが多い外見とうらはらに笑い飛ばせないこのキャラクターが全体の重心になる。演歌にたとえるとサブちゃんのような存在感だろう。もう一人の成功者は女性シンガーのバーバラ(ロニー・ブレイクリー)、体調と精神がいまいち不安定なスター。トム(キース・キャラダイン)ほか何人かのシンガーたちもきらびやかなステージにあがる資格をもっている。本人役でエリオット・グールドジュリー・クリスティもちらっとあらわれる。

ワナビーの筆頭はBBC記者を自称して有名人の会話にずうずうしくわりこむ女。彼女は狂言回し的でもある。そのほか、つねにいい男さがしをする珍妙な女(シェリー・デュヴァル=『アニー・ホール』のスピリチュアル系女役での不思議顔が印象的)、シンガーを目指す殺人的に歌唱力がない女、レッドネック系の旦那から逃げ出してショービズ界に入りたい女、バーバラの追っかけの軍人(スコット・グレン)、マザコンの青年などがいる。

そしてもう一人、最大のワナビーは大統領候補だ。彼はどうやら市民派の第三極みたいな候補者で、そういう人はキャンペーンの途中まではそれなりに存在感があったりして、時にはリベラル票を集めて民主党候補をあわてさせもするんだけど、基本的に勝つ見込みはない人達だ。ステイタスはそれなりにあっても、彼もまた実現性の低い夢を追う立場ではあるのだ。大統領候補は物語につねに影をおとしつつ、本人は出てこない、いわゆるマクガフィンだ。

キャンペーンを取り仕切る広告屋ニュートラルな立場。内心ではカントリーをださい田舎モンの音楽だとバカにしているし、候補者にも政治信条としては賛同していない、どこにも帰属していない存在だ。『ザ・プレイヤー』のプロデューサーにちょっと似ている。もう一人ジョーカー的なのがひょうひょうとしたイージーライダー風バイカー(だけど3輪)で、なにをするわけでもなく、ただすずしげに画面の中を走る。若い頃のジェフ・ゴールドブラムが珍妙なコスチュームながらいい味を出している。

・・・という、そんな三つのグループを、わりとフラットに描いてしまうのがアルトマンらしさだなぁと思う。物語を整理したければ、ワナビーのグループなんて軽く描いてしまったっていいのだ。区別がつきにくい印象のうすいキャラにするとかね。フジテレビ系の職業モノ映画は一般人をわりとそういう、間抜けな有象無象的描き方するでしょう?あの感じね。あるいはそっち側のドラマはドラマとして、有名ミュージシャンに憧れている心理を描いてみせるとかもできる。

でもアルトマンはそうしない。有名人もまわりの一般人も重量的にはあまり差がない描き方なのだ。どちらもかけがえのない一個の人間だもの。式ヒューマニズムではもちろんない。だってアルトマンだもの。誰一人思い入れがないような距離を置いた視線で、成功者たち、ワナビーたち、それぞれのいやらしさや間抜けさが生態観察のように描かれて、例によって全員どことなくこっけいな存在になる。

そもそも映画のメインになっているカントリーミュージック自体、この映画では不思議な扱いなのだ。映画で流れている音楽はカントリーの名曲じゃなく、シンガー役の俳優たちが歌う曲は、俳優たち自身が書いたものだ。「流れているのは名曲じゃなくていいんだ」と監督はいう。あまりにも面白いやり方といわざるをえない。それにこたえて曲が書ける俳優も俳優だ。やけに器用じゃないか。映画の中のスターたちのモデルになっている実在のミュージシャンはいるそうだけど、監督は曲までありものを使って色がつきすぎるのを嫌ったのかもしれない。

ちょっと面白いのは映画のなかではカントリーとならびたつようにゴスペルが登場する。ショーアップされたやつじゃなく、教会に通う黒人信者たちがガウンを着て歌うゴスペル。特にラストのライブでカントリーミュージックを圧倒するようにコーラスの荘重さ、存在感が増してくるシーンがある。どんな意味があるのか、あるいはそれほど強い意味はないのか、そのへんはぼくにはわからない。