ガタカ


<ストーリーはこの辺で!>

このまえ、ひさしぶりに見返した。1997年公開。ま、ふつうに名作ですよねいまさら言うまでもなく。この映画、SFのある撮り方のクラシックといってもいいんじゃないかと思う。
ストーリーはすごくモラリスティックで、一言で言えば生まれじゃないよ,努力だよ、ということ。DVDにあった未使用テイクでは遺伝的ハンディをもちながら偉業をなしとげた人々の名前が流れるシーンが(たぶんエピローグだろう)あった。さすがにベタすぎると思ってカットしたんだろう。本編のセリフやエピソードで十分メッセージは伝わる。 映画はそれを熱くウエットに訴えずに、とことん禁欲的に、低温に徹して語った。それがかえって観客のこころにしずかに残るようになったと思う。監督のアンドリュー・ニコルはこれ以外にも『トゥルーマン・ショー』『ターミナル』など、非日常設定+ヒューマニスティックなメッセージという映画の原案・脚本を担当している。
「SFのある撮り方」は、ようするにある種の見立てによって「これは未来世界」と納得させる見せ方のこと。この映画には(予算の制約のせいもあると思うけど)未来世界にしかないイメージはなにひとつ出てこない。既存のビルにちょっとした小物をセットする程度で近未来感を出す。バランスを取るために、世界観を少しマンガ的なレトロフューチャー方向に振って、登場人物はダークスーツを着て、ドクターや刑事は記号的コスチュームを身につけ、車はわざと60−70年代のモデルを音だけで電気自動車風に見せる。唯一のガジェット、遺伝子認識システムは、指から採血する原始的なシステムだし、宇宙船にいたってはただの銀色のハリボテ(乗降口ね、あくまで。全体は見せない)。しかし名建築を使っているだけあって、中途半端に作ったSF的セットよりずっと画面に本物感がある。監督はスペクタクル系SFのようにイメージを「見せる」のではなく、よけいな物を「見せない」ミニマルな映像にする。そしてスタイリッシュなインテリアを選び、強力に色彩チューンを加えて、 現実感をそぎ落とした統一された世界に仕上げる。この見立てに乗ると、普通に飲んでいるドリンクも何かの合成化合物かも、と思わせるし、クラシックコンサートもポスター一つでひっくり返る。

マリン郡シビックセンター。設計者F.L.ライトのドローイング

ヴィンセントたちのアパート。実際はここの校舎

ヴィンセントとアイリーンが行く太陽光発電所

SFで現代の風景を見せて未来的ガジェットを使わない撮り方は、『ガタカ』だけのアイディアじゃない。一昔前の有名なところだとゴダールの『アルファビル』。トリュフォーの『華氏451°』。『ソラリス』(もちろんタルコフスキーの)はセット撮影だけど宇宙船は古典的インテリアだし、オープニングの未来風景イメージに首都高赤坂付近の映像が使われてるのは有名な話。この種類の作品に共通しているのは、作品のキモがハイテクノロジーではなく、別世界のビジョンでもなく、哲学的ともいえる設定を入れることで、今見える風景がなんだか違う世界に見えるタイプだというところだろう。そこではスペクタクルは必要ないのだ。ある種の思考実験による「異世界」だということを観客が納得すればいい。『ガタカ』はSFの体裁をとっているけど、<遺伝子操作技術が当然の社会>という設定のため未来社会にする必要があっただけで、基本は叙情的なヒューマンドラマだ。
この映画のコンセプトは、最初のシーンで宣言されているとも言える。ブルーの空間のなか、白い物体が舞い降りる、抽象的で美しいシーンだ。でも実はそれ、ヴィンセントが毎朝剃っている体毛の拡大だったのだ。この映画のテーマは、自分にとっての束縛でもあり、自己実現のパートナーでもある身体だ。たえず組織を更新して機能をたもち、そのかわりにDNA情報が乗った切片をたえずまき散らしながら動く人間。その切片に無限の重みがあたえられてしまう、ゆがんだクリーンな世界。ふつう主人公の行為はどうみても潔癖性とみなされるだろうが、ここでは明白な必要性があって彼はそれを徹底する。
ところで、この年代のイーサン・ホークは、いくら鍛えてびしっとヘアメイクをしても、正直ちょっと芋っぽく見えて、この映像世界のクールさに負けている感じがする。みんな言ってるけれどジュード・ロウの方が魅力的。というよりこの映画のユマ・サーマンの美しさが完璧過ぎるんだけどね。