HOME〜空から見た地球〜


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世界各地の空撮映像+地球環境メッセージという環境教育映画。無料で見られる映画というコンセプトで製作され、2009年6月、世界中同時にネットやTV、DVD、劇場などで公開された。監督は空撮専門のヤン・アルテュス=ベルトラン(映画と同名の写真集で知られる)、リュック・ベッソンのヨーロッパコープ製作。スポンサーはGUCCIやPUMAを持つPPRグループ。
映像そのものは十分に素晴らしい。それだけで見る価値はもちろんある。ヘリコプターの空撮だがカメラは振動をキャンセルする装置に取り付けられているらしく、気になる振動はない。音響も手間がかかっていて、たとえば水辺の風景では遠くから撮っているのに水音的なサウンドが聞こえる。現場ではとうぜんヘリコプターの音しか聞こえていないはずだ。グライダーかなにかで撮っているみたいなスムーズな映像と音だ。環境映像のつもりでずっと見ていたっていいんじゃないかと思う。
しかしこの映画はそういう方針でつくられていない。映像にはたえまなく言語メッセージがのる。日本語では道端ジェシカの(声だけだとそれほどゴージャスでもない)ナレーションが映像の上に重なって、映像だけを単純に観賞させてくれない。 この映画、最近の環境メッセージ映画に多いワンテーマ型の作品(あるテーマを突っ込んだドキュメンタリー系)じゃなく、今地球環境関連で問題とされているトピックをひととおりおさらいするタイプ。短いナレーションに、関連する(ときにはイメージ的に)映像がかさなる。
ラスト10分まではひたすら悲観的だ。生物は乱獲され、絶滅し、生息域をうばわれ、水は汚染され、枯渇し、氷は溶け出し、大地は掘り返され、または侵食され、資源は枯渇し、その一方で都市は無軌道に高密度化し、難民が流入し、貧富の差は拡大し、不夜城のように無意味に輝く。観客は自分たちが黙示録的な破滅のふちに立っていることをいやでも感じないわけにはいかない。とくに先進国の観客は自分たちがいかに罪深いライフスタイルをおくっているかを苦々しく感じさせられる。破滅と罪。それがこの映画が押し付けてくる観念だ。意味ありげなカットのつなぎが人類の愚かさを雄弁に語り、罪深い人類の所業に緊張感を煽り立てるBGMがかぶせられる。ちなみに、ほんとにちなみにだが、環境汚染関連の深刻かつ大きいあるトピックについては触れられていない。フランスという国で作られたことと関係あるのか・・・なんて余計な深読みだろうな。
あまりにも悲観的なシナリオに、観客が十分打ちのめされたあと、ふいにBGMがやさしくなり、破滅に向かう流れにささやかながら抵抗する人々の活動が紹介される。そうか、今悔い改めればわれわれは救われるのだ。われわれも彼らに続け。 ・・・というわかりやすすぎるこの構成、そっくりな映画を思い出した。ほかでもない『不都合な真実』だ。『不都合』からアル・ゴアのプロモーション映像部分を取り除けばそのまんま『HOME』になる。残念ながら『HOME』は『不都合』よりさらにイージーなところがある。ナレーションで列挙されるあらゆる環境の劣悪化が、吹き替えだったせいもあるのか、いまひとつ精確さに欠けるのだ。たとえば何かが減少した、というときに種の数なのか個体数なのか、あるいはいつと比較してか、などきちんといわないときがある。今の映画なんだから、美しい映像にテーマごとのグラフでもオーバーレイすればいいじゃないかと思う。
ことわっておくけど、僕が言っているのはメッセージそのもというより映画の作り方のはなし。情緒的アプローチすぎるんじゃないの?と言っているのだ。BGMのかぶせ方なんてときどきかなりベタで、危機感を煽る映像部分のBGMはもろに重々しかったり切迫感のあるビートだったりだ。
たぶん、この映画は「入り口」なんだろう。問題自体関心がなかったりよく知らない人々、あるいは子供たちに間口を広げるのがこの映画のコンセプトだ。無料公開だってそういうことだ。その意義はわかる。ある種のわかりやすさが必要なのもわかる。だけどなあ・・・B・ロンボルグみたいな懐疑派が突っ込むのもこういうところなんじゃないかと思うんだけど。そういう意味でも僕は『いのちの食べ方』の禁欲的な演出に共感してしまうのだ。