メランコリア


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前に『HOME』や『不都合な真実』を見た時に思ったけど、環境問題の映画ってやけに終末感が濃いのがあるよね。どうしても聖書的な、堕落した人間と破滅の物語になしたくなるんだろうか。<終末を予感させる不吉な映像のたたみかけ→一条の光、ささやかな救いの試み→今はかすかな力だけどみんな気づこうよ!>的展開がパターン過ぎる気もするんだけど。
逆に「かがやかしい未来像」のビジョンって今、勢いない気がする。1970年代までは、明るい未来文明もののSFも多かったでしょう。たしかに今無邪気にそれはうたいにくい。でもな。「未来にむけて世界はどんどん変わっていくよ、しかもハッピーな感じで」ていうのが前提になってた時代はむしろ特殊なんじゃないかとも思う。そもそも近代以前、たえまない技術革新と開発で世界は変わり続ける、なんて常識自体なかったでしょうきっと。

さてさて、そんな終末ビジョンの最新版のひとつがこの映画だ。映画のプロットは「惑星、地球に衝突。」終末のなかではましなほうだろう。ゆるぎない宇宙の摂理によって、厳密に、不可避的に、公平にやってくる最期。ここに人間の罪とかはいっさい関係ない。たぶん一瞬ですべては終わる。人々の最期にちがいがあるとすれば、どんな精神状態でそれを迎えるかという差だけだ。この物語では世界の終末は象徴的なもので、完全に個人的な体験として描かれる。そしてはっきりいって、この映画での世界の終わりは「救済」なのだ。流麗な画面のなかで不気味なまでにせまりくる惑星メランコリアに、世界の破滅の空気をいやでも感じないではいられない。それはひたすらに美しく描かれる。こんな優雅な世界の終わりもない。あたりまえだよね。救済なんだから。
ストーリー
Part1  ジャスティン(キルティン・ダンスト)の結婚披露宴の夜。姉夫婦の豪壮な屋敷でパーティーだ。ところが新郎新婦の乗るリムジンが途中の狭い道ではまり、ひたすら客を待たせたままいつまでたっても到着しない。やっとパーティがはじまっても、主役のジャスティンは急速に鬱状態におちいって、引っ込みがちになる。姉夫婦のいらだちをよそに奇妙なパーティーは夜更けまでつづく…
Part2  夫婦の屋敷に鬱を悪化させたジャスティンがやってくる。身体をうごかす気力もない。姉クレア(シャーロット・ゲーンズブール)は献身的に世話をする。夫マイケル(キーファー・サザーランド)は冷淡で、それより地球に最接近する惑星メランコリアの観察に夢中だ。クレアは最接近したメランコリアが地球に衝突するという説を信じておびえていた。

Part1では、「個」の危機がまず描かれる。結婚式という「ハッピーでなくちゃいけない」イベント。主役のジャスティンに危機がおとずれる。それでも最初はうまく乗り切ろうと彼女は努力する。でも思いとは裏腹に、彼女の傾向の元凶にも見える破壊的性格の母の毒まみれスピーチとかもあって、彼女はどんどんどつぼにはまって式場にいるのもつらくなる。後半、彼女は何かを振り切ったかあきらめたか、会社の社長に暴言を吐いたり、庭で性的に解放されたりと、どんどん社会的ななにかをこわしていく。精神的トラブルをかかえたヒロインと結婚式のあやうさを描いた映画は『レイチェルの結婚』が傑作だけど、トリアー監督の『奇跡の海』の不安定な結婚式シーンもいいんだよね。自分の世界に生き、社会とのおりあいがつかない妹=新婦と、彼女をこの社会につなぎとめようとするもやい綱としての姉、という『奇跡の海』にあった関係はこの映画でも繰り返される。
Part2では危機は全世界のものになる。鬱が悪化してどうにもならなくなっていたはずのジャスティンは終末の予感がリアルになるにつれてだんだんと立ち直る。良識派で客観的には恵まれているクレアやその家族にとっては終末は恐怖でしかないけれど、内面の終末(的なもの)を経験している彼女にとっては単に粛々とただしく迎えるべき「その時」にすぎない。彼女は「地上の生命は邪悪だからほろびてもかまわない、他に生命なんていない」なんて言い放つ。厭世的といえばもちろんそうだ。でもこの映画の終盤での彼女はいきいきとして美しさをとりもどし、とつぜん全裸で星の光をあびて青白く光ったりして、すべてを見通したような透徹した存在になる。しまいには宗教的シンボリズムをたたえたシェルターをつくる。
危機が近づいてパニックになったクレアは、息子を抱いて山の上の豪邸から下界の村に行こうとする。でも結局は橋をわたることができずにもとの場所にもどる。ジャスティンははじめから下界に関心がなく、隔絶された世界で、ただしい最後の迎え方をしようと、甥といっしょにシェルターをつくるのだ。ゲーンズブールが橋を渡れないシーンはすぐに『アンチクライスト』を思い出した。精神的な危機をむかえた妻(ゲーンズブール)は森のなかの橋をわたれないのだ。

この映画、とにかく象徴主義的というか、ストーリーから派生するというよりは何かの寓意をちりばめたみたいな意味ありげな映像のてんこ盛りだ。トリアーらしい文化的小ネタだらけで、とくに絵画が何度も参照され、画面自体もすごく絵画的だ。全体のシンボル的なビジュアルになっているトップ画像の原典は、もちろんジョン・エヴァレット・ミレーのこの絵。ミレーの絵はとちゅうでも出てくる。これだブリューゲルの「雪中の狩人」も大きく出ていたね。映画とは直接関係ないけどメランコリアという同じタイトルのデューラーの寓意画
それ以外も、引用元があるのか分からないのがちょっと悔しいけれど、絵解き風のイメージがくりだされる。正直、これが趣味に合わない人もいると思う。思わせぶりのスノビズムだけじゃん、て見えなくもない。でもおれは好きだな。だって美しいもの。苦い物語を飲込ませるためのシュガーコーティングだとしても美しい。この映画、見てからけっこうたっているんだけど、その映像的な気持ちよさが一番残っている。同じように個人にとっての世界の終末をテーマにした『ニーチェの馬』がミニマルと言いたくなるくらい禁欲的だったのと較べると、この終末はほとんど豊穣と言っていいような華麗さだ。ただし、共通してるのは「馬の死」が終末のシンボルのひとつとして描かれる。しかしあれだね、同じうつ病を扱った映画でも、『ぐるりのこと』の日常感とその分の痛々しさと較べると、この映画の映像的なゴージャスさや寓意的イメージを多用したきらびやかな世界はその分見ていて楽だ。少なくとも主人公が「生活といううすのろ」に足をひっぱられる心配はない。それでもどちらも絵画的なものに何かを託していたのが面白かった。