サンタ・サングレ〜聖なる血

<参考>ネタバレ注意!
<ホドロフスキー公式> こんなのあったのか!

ホドロフスキーというと、どうしたって『エル・トポ』『ホーリーマウンテン』の手作り感あふれるシュールなイメージの奔流を思い出してしまう。その後彼の名前を見たのはメビウス作画のBD(フレンチコミック)、『アンカル』シリーズだった。これはメビウスのきれいな絵のせいで、ホドロフスキー的エグ味はどこにもなかったが、フランス語のセリフがほとんどわからないせいもあってどことなくホーリーな感じだけは伝わってきた。
長編3作目の『サンタ・サングレ』は1989年公開。前2作とは違う性格の映画だ。本作はメキシコが舞台だがイタリア映画。ほぼB級ホラー専門のクラウディオ・アルジェントがプロデューサーで、同じくイタリアの、やっぱりB級感あふれる作品を続々と生み出しているロベルト・レオーニと二人が監督ホドロフスキーとならんで脚本を担当している。実在のシリアル・キラー(逮捕後統合失調症で入院、治療後社会復帰)への取材を元にしたという、サスペンス・ホラー風味のエンターティメントだ。最初の2作でカルト作家として売り出したものの、その後長編映画を撮る機会がなかったホドロフスキーをかついで、なんとか商品になる映画を作り上げた、というのがたぶん本作なんだろう。
ストーリーは首尾一貫していて、構成もわかりやすく、主人公たちの心理も想像できて感情移入する手がかりもちゃんとある。意外なくらいオーソドックスな演出だ。しかし2人のイタリア人たちのB級テイストは映画全体に行き渡り、1989年公開にしてはどことなく古臭い香りさえかもし出すようになってしまった。そういう意味では前2作のような、時代を超越したクラシックかどうかはちょっと微妙な作品だ。ビデオプロジェクターで見たせいもあるのか、画面も70年代かと思ってしまうくらい古く見えた。ただホドロフスキーのビジョンは十分に全編に溢れている。かえって美術や撮影の古臭さが中南米の土着的・呪術的な雰囲気にあっているような気さえする。

物語の舞台は、サーカス、いかがわしいステージ、娼婦とヒモ、中南米っぽいロウソクいっぱいのカルト信仰、などのフレーバーと、サイコホラー的な連続殺人モノがごっちゃになった、フリークショウ風味濃厚な世界。現代ではちょっと撮れないだろう(というか89年でもどうかと思うが)、というヤバ目のシーンが堂々と挟み込まれ、そういう意味でも近世的な、というか、おおらかな時代の残照が感じられる。このサイトでいうと、『フィッツカラルド』の時代性無視っぷりに通じる感覚だ。
ストーリーはさっきも書いたようによくまとまっている。前半パートが主人公のサーカス子役時代、後半で青年時代を描くのだが、父と母がおりなす子供時代の強烈な因縁が、最後まで主人公を呪縛する姿がわかりやすい。幻想、悪夢的シーンも意味不明で放り出されることはなく、ストーリー上きちんと回収される。
演出で面白かったのがいわゆる対位法的なシーンだ。前半はサーカスを舞台にしているから悲劇性やえぐさと祝祭的な世界が同居して描かれるし、後半では、たとえば暴力的で凄惨なシーンのバックに、にぎやかなサルサめいた曲がずっと流れ続ける。少女が必死で逃げるシーンでは祭りの会場のような色とりどりの楽しげな飾りのなかを手持ちカメラで追っていく。
主人公は一見対照的だった父へ同一化していき、母親との近親相姦的な密着関係に一致するものになる。母親は息子を絶対的に支配し、最後にその理由があかされる。美人がほとんどいない女性嫌悪的なこの映画で母親は唯一美しいといえる女性で、もっともエキセントリックな性格にもかかわらずヒロインとして存在することに観客は納得せざるを得ない。母親は腕を切り落とされた女性を聖人とするカルト宗教にはまり、やがてそれと同一化した存在になる。
母親と対照的な堕落の象徴としてタトゥーの女が出てくる。彼女は19世紀的なまでにデブで、それでいてセクシー担当である。その養女は顔を白塗りにした口のきけない少女で、成長すると主人公を母親の呪縛から救いだす女神役となる。ここぞというシーンで昔と同じ黒服をまとい、ふたたび白塗りになる。死神のシンボルのようであり、じっさい彼女はある「死」を宣言する役目を果たす。本来ヒロインである彼女がずんぐりとした、大して美人でない女優であるところがこの映画の手触りをいっそう不思議なものにしている。主人公は少年期、青年期ともどこかで見たことがあると思ったら、監督ホドロフスキーの歳の離れた息子たちだった。目付きが似てる!