フード・インク E・シュローサー&R・ケナー


<公式>
この映画は、当ブログで前に紹介した『ファストフード・ネイション』と異母兄弟みたいな関係だ。巨大企業の寡占状態になってその論理に完全にコントロールされている、アメリカの食の実態を告発するという内容。両方の原作本を執筆しているジャーナリスト、エリック・シュローサーのテーマだ。ドラマ仕立ての『ファストフード』は先に制作・公開された。でもぼくから見ると、フィクションにしたことでヒューマンドラマに比重がうつってしまい、肝心(のはず)の告発部分がなんだかぼやけてしまった映画だった。
シュローサーと、PBSアメリカの公共放送)やナショナル・ジオグラフィックなどでドキュメンタリーを撮ってきた監督ロバート・ケナーは、こんどこそドキュメンタリーを撮ろうとして、2008年にこの作品ができあがった。食の産業化を扱った映画といえば『いのちの食べ方』があった。『いのち』は少なくとも表面的にはニュートラルにただ映すというスタイルで、ナレーションもBGMも入れずに通していたけれど、この作品はちがう。作り手がなにを問題視しているのかCGやグラフを使ったりして最初にわかりやすく説明し、その後の取材映像の構成もすべて一貫した視点でとおしている。ジャーナリスティックな映像といってもNHK的な問題点のほのめかしと「今、問われている」式の落とし方じゃなく、個人ジャーナリストのはっきりした主張を映像化した作品だ。
ここで語られているのは、アメリカの食産業が想像以上に巨大企業による寡占状態になっていて、それが意味するところは、消費者の選択の自由がせばめられているのと同時に、というかそれ以上に、第一次産業の生産者が超大口顧客である巨大企業に支配されて、自由な生産活動が出来なくなっているんだ、ということだ。「モンサント」ももちろん出てくるし、鶏や牛の大企業による畜養の実態も紹介される。また、『ファストフード』で主に語られていた、大規模処理工場でのハイスピードな処理(それは末端の作業員にも過大な負担をかける)が、近代化というかけごえとは裏腹に食中毒事件の原因になっている様子などが描かれる。そしてその対策として生み出された、もっと高度に工業化処理されたミンチ肉の食べ物らしくない姿も。
食中毒の被害者や、圧迫を受ける生産者たちが、巨大企業の強力な法務セクションの力におびえる姿もなんども紹介される。色々な州で巨大食品企業に対抗しようとする、いやそれに服従しないこと自体が巨額の訴訟リスクを負うことになるのだ。たぶんそのせいもあって実名・顔出し取材には苦労したんだろう。『キング・コーン』という映像作品で紹介していたような、コーン生産が日本でばくぜんと思っている以上に、たんなる食材だけじゃない巨大な素材産業になっている様子も紹介されている。
いっぽうで、オーガニックな生産者に巨大流通企業が接近する様子も映される。彼らと契約をむすんで事業をジャンプアップさせる生産者は、かつての同胞から裏切りものみたいに見られる。そうかと思うと、別のオーガニック生産者のところへ買い付け契約にやってきたウォルマートの担当者たちは、説明なしでもはっきりわかるくらい際立って人間味が薄いひとびとに見える。

・・・といったような内容と、そんな「巨大な力」に従わずに、じぶんの道をゆくオルタナティブな生産者もいっぽうで紹介される。ウォルマートの訪問をうけたオーガニックファームのオーナーは「ウォルマートは嫌い」と、笑みをたたえながら、それでもはっきりと言い放つ。小さな規模で、牧草を食べさせて健全な牛を育てる生産者もでてくる。スタッフたちは殺風景な工場じゃなく、さわやかな風が吹き抜ける木陰で仕事をしている。大企業のプレッシャーに対抗しながら自分がいいと思う方法でニワトリを育てる生産者もいる。この感じは『HOME』に似ている。どうしようもない不吉で巨大な流れをこれでもかと見せつけて観客をじゅうぶんに暗い気持ちにさせ、そのなかでかすかな灯火のような救いを(パーセンテージとして大局に影響があるかはともかく)見せる。そして映画は最後に、この状況に対応するために消費者としてこころがけるべきことをいくつかテロップで流す。地産地消とかスーパーでなく直売所でとか旬のものを食べようとか、そういったことだ。
全体にとにかく主張がはっきりしていて、それがドキュメンタリー形式で描かれるから、「これがアメリカの、世界の現実なんだ!」とこの一本だけ見て結論づけるみたいな見方がでてくるのをちょっと危惧する気持ちもないわけじゃない。短い時間でテーマを飲み込ませるための演出だってとうぜんするだろう。ベタにエモーションに効かせようとする部分とかやっぱりある。それでもこういう実情をわかりやすく紹介する映画自体、そうそう公開されるわけじゃない。2012年のいまでも食の問題のインデックスの一つとして見るべき現在性は十分あるんだろう。