あるスキャンダルの覚え書き

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女教師バーバラ(ジュディ・デンチ)とシーバ(ケイト・ブランシェット)の関係をじっとりと描き続ける。何度も見返したくなるようなチャーミングな映画じゃないけれど、スリリングで集中を途切れさせない。
定年間近のバーバラはコミュニケーションが下手で、プライドだけは実情よりも高く、しかも異常に粘着質という、ほとんど愛すべきところがないキャラだ。美術教師として赴任してきたシーバに彼女はつよく引き付けられる。美しく、裕福なシーバへの興味と羨望、彼女の家に招待されていそいそと支度する女心、特別に彼女とつながっているというよろこび・・・物語はバーバラの視線で進み、彼女の心情がモノローグでかたられるから、途中までは、そこはかとなく共感できたりする。
シーバが学校に現れるシーンは、周囲の人のなかでひとりだけ光が当たっているみたいに明るく浮き立って見える。でも実はバーバラにそう見えているだけかもしれない。その内面は自己評価が低く、年齢相応に成熟できなかった女性で、あっという間に教え子の中学生とセクシャルな関係にはまり、それを覗いたバーバラに弱みをにぎられてしまう。『コーヒー&シガレッツ』では、一つの画面で対照的な二人の女を演じたケイト・ブランシェットが、美しさともろさや愚かさが共存する女性を再現する。
原作は同じタイトルの小説。シーバのスキャンダルの一部始終をバーバラが記録した、というスタイルになっているそうだ。一見客観的な記録だけど、実は書き手が思っていたほど中立でも正確でもない、いわゆる「信頼できない語り手」というタイプの小説だ。このスタイル、映画でもやろうと思えばできる。このタイプの傑作が『ユージュアル・サスペクツ』だろう。他にもフェイクドキュメント系の作品で、そういうテイストのものがある。でも、とうぜんトリッキーなスタイルの映画になる。本作の脚本家はそれをやめて、ストレートなドラマにした。二人のスリリングな関係を名女優二人の演技で見せることに集中したのだろう。
そしてバーバラを小説より孤独で分かりにくい人物にした。ラストがちょっとサスペンスホラーっぽくなっていて、これは映画オリジナルだ。シーバは、原作より少し前向きで、家族ともいい関係という設定に変えられ、好感されやすい女性になった。彼女のラストシーンはちょっと日和っている気もするけれど、ブランシェットに思い切り可愛い表情をさせて、観客をほっとさせる。映画はシーバを魅力的にすることで二人のコントラストをはっきりさせて、入り込みやすいドラマにした。このあたりはエンターティメントとして通用させるためのアレンジだろう。細部はこちら
そのせいで、特に映画の後半、バーバラのシーバへの独占欲が表にでてくると、彼女はただの嫌な女になってしまうきらいがある。そしてストーカー歴のある病的な人間へと描写はエスカレートしてしまう。最後は彼女が地味に成敗されることで観客はちいさなカタルシスを得るという展開になる。それでも名優ジュディ・デンチの不思議に凛とした雰囲気もあって、異常な人間というよりは、鉄のよろいを着続け、いっぽうで好きな人間に執着しないわけにいかなかった老女の哀しみみたいなものがなんともいえず伝わってくる。
バーバラのシーバへの思いは、「好意をもった相手に好意を返される」経験があまりに少なく、関係を続けるために支配的になる以外方法が分からない、という姿なのだが、それにプラスしてレズっぽい香りをぷんぷんさせている。これも原作より強調されているポイントだ。彼女の視線となったカメラはねちっこくシーバの体を見つめ、友情にかこつけて彼女を愛撫しようとする。バーバラの妹も彼女の傾向に気が付いているふしがある。そのくせモノローグの中で男(と断定はしていないがそう聞こえる)に触れられることで興奮する自分について語るので、見ていると「?」という思いになる。
たしかにレズっぽい設定は分かりやすい。厳格な中流家庭に育ち、同性愛など認められない規範意識にしばられて自分の欲望を解放できないバーバラ。それが歪んだ友情のような支配的関係に変わるという、なんだか分かったような解釈ができてしまう。彼女の視線に乗じた観客サービスでもある。・・・結局、どちらの思いにしても、それはバーバラの完全な片思いにすぎないのだ。シーバの好意は、孤独な中で手を差し伸べてきた相手への便宜的なもの以上ではなかったのだから。苦いね。
それにしてもスキャンダルが露呈して追い詰められたシーバが、突然パンクなメイクをしたりエロチックな格好をしたりするのは(これまたサービス的にはOKなんだが)どういう意味なんだろう。

結論。『<ちょっと嫌な感じ>を楽しめる観客には善兵衛が推奨!』