イースタン・プロミス

公式(よけいなFLASHがないかわりに解説が詳しい!)


主人公ニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)と同じく、映画そのものもすごくタイトな雰囲気だ。 監督デビッド・クローネンバーグの前作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』が、原作・設定がちょっと軽くてあまり強烈な印象を残さなかったのにくらべると、今回は脚本・プロットと演出が完璧にかみあい、ほとんどケチのつけようがない。
ストーリーはとてもシンプル。ロンドンの一角、クリスマスに近いある晩に事件は始まり、新年を迎える夜に終わる。 ロシアンマフィアのファミリーの物語だ。ファミリーは一人の老いた、絶大な力を持つ「王」が支配する。「王」が主宰するにぎやかなパーティーには、着飾ったロシア人移民のおばあさんも子供たちもやってくる。血の結束だ・・・これを見ただれもが『ゴッドファーザー』を思い出すだろう。
その裏にはスラブ各国からヒューマン・トラフィックでつれてこられた女性たちがいる。ヨーロッパの華やかな都市(ロンドン・アムステルダム・・・)を夢見てつれて来られた少女たちは、娼館に押し込められる。ときどき彼女たちの絶望的なつぶやきがインサートされる。望まない出産と引きかえに死ぬ少女はまだ14歳、娼館のシーンでもローティーンの少女を紛れ込ませて、それとなく実態を見せている。
さてストーリーは、マフィアの一員ニコライとロシア系の看護士、アンナ(ナオミ・ワッツ)との接近が軸になる。ラスト近くにちょっとしたオチがある。サスペンスだから当然だけど、このオチを知っているか知らないかで、つまり一度目に見たときと二度目の感触はかなり違うだろう。オチがわかって納得できる伏線もいくつかあるけれど、僕の感覚でいえば、ニコライの役作りと細かい感情表現は、1度目のほうが、つまり、この複雑な顔を持つ主人公を、信頼して好意を持っていいのか・・・というアンナの不安を共有しているときの方が、ずっとビビッドに伝わってきた。
ヴィゴは前作ではもっさりしたアメリカン・ダディが冷酷な殺人マシーンに変わっていく変身を見せた。今回ははじめからスタイリッシュな悪役のお手本のようなたたずまい。決して感情が揺れ動かず、声のトーンも低くかすれたままだ。「王」の息子キリル(ヴァンサン・カッセル)の、嫉妬と愛情と虚勢と依存心がめまぐるしく表情に出る演技とのコントラストが効果的だ。ポスター用の写真にそれが見事に表現されている。暴力の刻印を秘めた肉体を、ジャガー・ルクルトの時計とアルマーニのスーツのエレガントさの下で統御する。

サウナで刺客におそわれる最大の暴力シーンで、彼が全裸なのは象徴的だ。もちろん、裸で刃物と相対する皮膚感覚的な痛みを観客に感じさせるのがメインの目的なんだろうけど、彼にとっては全身のタトゥーをさらして、呪縛をときはなった姿でもあるわけだ・・・ちなみに裸になると、それなりに鍛えられているが、腹回りはちょっとたるんでいて、これも役柄を考えた体作りらしい。
この映画、銃撃戦も爆発もゼロで、殺人はナイフで行われる。・・・映画の銃撃戦というのは観客にはもはや「お約束」というところがあって、弾が飛び交う恐怖を共有することはできない。当たった、死んだ、それだけだ。その点、刃物のシーンは痛みがある(日本刀の殺陣もお約束だが)。音も殺す方と殺される方の息遣いだけが聞こえる。クローネンバーグがむかしから人体改造や人体の破壊・メタモルフォシスに異常な執着があるのは有名で、今回も、わざわざ見せなくてもいいような人体切断のシーンやリアルな死体のすがたを何度も見せている。 チェチェン人の殺し屋兄弟が持つイスラムっぽいナイフは、実はリノリウムナイフという、カーペットやリノリウムタイルを切るためのもの。監督は「これなら警察に取調べを受けても、床張り職人だと言い張れる」なんていっている。
ラストは拍子抜けするようにあっさり終わる。小津安二郎の映画みたいに、ふつうだったら盛り上げるシーンがばっさりカットされていきなり後日談風のシーンがきてしまう。 これは想像だけど、いったん常識的に終盤の数シーンを撮影したんじゃないだろうか。しかし最もハイテンションなサウナのシーンは中盤の終わりくらいのところにある。だから終盤をあまり長くしてだらだらした印象になるのを嫌ったのかもしれない。あるいは監督はもう続編を撮影するつもりでいるらしいから、それもあってヘンにまとめずに余韻を残したのかもしれない。ラスト前のちょい甘なシーンとあわせて、終盤が緩むのが惜しいけれど、省略したことで、ラストも少し微妙になって解釈の自由が広がっている。

結論。『善兵衛で賞賛の声!抑制の効いたクライム・ムービー!』