キャロル


<公式>
ストーリー:1950年代前半、NY。デパートのおもちゃ売場で働くテレーザ(ルーニー・マーラ)の視界にかがやくようなゴージャスな美女があらわれる。いかにも上流階級のひとのような彼女、キャロル(ケイト・ブランシェット)は娘のためにおもちゃを探していたのだった。おたがいに何かを感じた2人。キャロルに誘われるまま彼女の世界に足を踏み入れるテレーザ。でもキャロルは離婚係争中で、最愛の娘をうばわれそうになっていたのだった…..

ひとついえることは、この映画、何回もの再見に耐えるタイプの作品だ。というかたぶん、1回だけじゃもったいないタイプの映画だ。そういいながらぼくは1回見ただけだけど、すでにほのかな飢餓感がある。また見たい、っていうね。それからやっぱり映画館向けの映画だろう。画面があまりにも上質感にあふれていて、ちいさいモニターじゃもったいない。大量の素材を煮込んでこしとった透明なスープのような、どうにも濃密な時間がある。オープニングのグレーチングをグラフィックなパターンみたいに使う撮り方からはじまって、ボルチモアの市街でロケした古めかしいNYの街も、あらゆる場所で視線をかわす2人も、逃避行でいく内陸部の風景も、船のように街中をすべるリムジンも、なんともいえずうつくしい。
映画としてはざっくりLGBTジャンルに入れられるだろうけれど、たとえば『キッズオールライト』みたいなわかりやすい政治的メッセージはない。だんだんとこのジャンルもふつうに作られて受容されるようになって、だから「つくられたことに意味がある」という時代でもなくなったかもしれない。つまりなにがいいたいかというと、そのあたりの意味はとっぱらって、単純に作品のあじわいだけで十分だということ。

おはなしはいわゆるジェットコースター的なところも、エクストリームな展開も、ぎょっとするようななにかも……..ううん、これってネタバレになるのかな、基本的に、ない。いやもちろんアップダウンはあるしサスペンス要素もあるけれど、基本はまっすぐラブストーリー、「あなたに会えて、わたし、変われた」物語だ。ルーニー・マーラが人種を越えてだれにも分かる、「まだ開花していない、なにかを秘めた女の子」感を全身から発散すれば、ケイト・ブランシェットは「悩みや弱さもふくめてでかい人」のありがたみを表現しきっている。『あるスキャンダルの覚え書き』でもそうだった、見つめられる人にふさわしいオーラがあるんだろう。ぼくは『スキャンダル』と『ライフ・アクアティック』の彼女が超越的すぎなくて好きだ。

女性2人が車で逃避行するはなし、『テルマ&ルイーズ』があった。あの展開は当時の空気のなかの必然だったのかな、とも思う。ひとつは男の存在だ。ファンタジックに語らないかぎり、女性だけで見知らぬ街を冒険すれば、まず眼前にある脅威はピューマやガラガラヘビじゃなく、人間の男だろう。『テルマ….』はそのあたりがけっこう痛々しい。逃避行じゃないが同性夫婦の『キッズオールライト』も2人で作ってきた世界に文字通り男が(暴力的にではないにせよ)闖入してくるのだ。
本作ではそのあたりがすごく抑制的だ。敵役ともいえるキャロルの夫も、保守的だし親権を争う関係なんだけど、観客が嫌悪するようには描かない。テレーザのまわりにいる若い男たちは、基本的に「わかってないやつら」程度で、強引に手をさしこんでくることもない。ちょっと面白いのは、原作ではテレーザと彼氏のセックス描写があったそうだ。でも映画では省略されている。たしかに本作の描き方だとそのほうが圧倒的にすっきりする。2人が田園地帯に出て、いきあたりばったりにモーテルに泊まる数日、1950年代前半だとそうとう異色だったはずで、それなりに緊張感がある旅だったと思うんだけど……まあその後の展開もふくめて、やっぱり抑制的ではある。

作り手は、2人の関係性がゆっくりと変わっていく、そこに集中させたかったんだろう。よけいなところでエモーションをかきたてることはしていない。繊細なピアノソロの曲でジャーンとシンバルならしても仕方ないからね。だから2人の視線とか手のおきどころとか、何度もはさまれるガラス越しの彼女たちの表情とか、すごく微細なところが意味をかもしだしている。2人が電話で話すシーンがいくつかある。そこでは画面上の必然性はないけれど、じっさいに通話している状態で撮ったそうだ。本作のラブシーン、必要だったのかどうかよくわからない。映画のラブシーンってそういうところがある。「いちおうおさえとかないと」的なね。本作でも見所は、ケイトのフリークライマー並みの背中の筋肉ということになってしまっているのだ。『アデル、ブルーは熱い色』は完全にひとつの見所として撮っていて、ポルノグラフィックな魅力を前面に押し出してる。本作はちがう。
ちなみにお金持ちのキャロルが乗る車はパッカードのスーパーデラックス8。パッカードは1920年代は超高級車メーカーだったけれど、じょじょに凋落してやがて会社自体消滅した。このモデルも高品質ではあるけれど、マーケットではすこし古臭い存在になっていたらしい。保守的なお金持ちの家にぴったりだ。それでもキャロルの自立する行動力のシンボルとして、、そうそう思いのままにはふるまえない2人の親密な場所として、忠実な大型犬みたいに最初から最後までよりそっている。