helpless

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浅野忠信はしかし老成しているな。 この映画は1996年公開だから撮影時は22歳くらい、高校生役だ。20台後半で中学生役をやるという(しかもギャグじゃなく)ことすらありえるんだから、ぜんぜんありだけれど、高校生にしてはほとんど「青さ」がない。逆に今でもあまり印象が変わらない。このとき既に「穏やかな不穏さ」みたいなものがにじみ出ている。
さてこの映画、監督はこれ言われたくないだろうけど、どうにも初期北野武の香りがただよう作品だ。作り手の寡黙さ、出演者の寡黙さ、淡々とした風景描写みたいなのが続いたと思うと、前触れもなく突然発生する暴力。
物語は、いわゆる主人公巻き込まれ型のようにはじまる。主人公健次(浅野)は、幼なじみのヤクザ、安男(光石研)の奇妙な復讐に付き合わされて、予期しない何人かの人に出会うことになる。安男は何年か前に、鉄砲玉的な役割で懲役刑を受けて、片腕まで失った。彼のなかでは、親分はその落とし前をつけていない。出所した彼は、兄貴分に復讐し、そして親分に復讐しようとする。しかし実際には親分は死に、組は解散している。復讐というものの不毛さ以前に、すでにその行動の不毛さが決定しているわけだ。
安男の暴力はピストルの銃撃だ。銃撃シーンは北野映画っぽく、簡単にピストルを抜いて簡単に撃つ。ピストルのアップも、撃たれた相手の断末魔の芝居もない。そんな不毛な暴力に健次はつき合わされ、安男の妹と鞄を託された彼は、荒涼とした喫茶店で待つことになる。そこにいじめられっこだった同級生(斉藤陽一郎)があらわれ、彼も事情を知らずに喫茶店の客となる。
・・・そして唐突に健次の暴力がはじまる。それはガラスの割れる音とともにはじまり、長い髪のせいもあって最後まで顔の表情がよくわからないままに終わる。暴力シーンとのコントラストを出すために、途中で同級生とたわいもないはなしをしたり、うさぎをなでてみたりする。このあたりの呼吸も、しつこいようだけど北野映画を思い起こさせる。そして暴力が過ぎ去ると、彼らは北九州の風景の中に、また吸収されていく。
映画は、一見「親切な映画」ではない。健次は、はじめは鬱屈した、ふつうの高校生のように見える。観客は、そんな彼が非日常的なヤクザの私闘に巻き込まれ、困惑する話なのかとおもって、彼に共感しそうになる。ところが、突然彼自身が理解を超えた暴力の主人公になってしまう。自暴自棄的なその暴力は、父の死がトリガーになっていると示唆されるけれど、説明はない。だから、観客は衝撃とともに彼にヤクザ以上の恐怖をおぼえることになる。逆にヤクザである安男のほうが(実際は彼の方が連続殺人を犯しているのだが)、一途で、他人にちょっとした気遣いをしたりする、ある意味まだ共感できる描き方をされる。ヒロインの安男の妹、ユリ役には辻香緒里というかわいい女優を配しているけれど、知能が低く、ふつうの会話がなりたちにくい相手という設定だ。だから彼女の思いも観客はかすかな視線やボディランゲージから推察するしかなく、イージーに共感させてはもらえない。ラストはちょっと「クリスティーン」を思い出すシーンだ。そこに監督がなにを込めたのかはわからない。むしろ解釈というより、物語全体の不安定さを残すためにそのシーンを入れたような気がする。
ストーリーはある1日の物語で、『9 p.m.』『10p.m.』のようなタイトルで章分けされ、時間軸にそってシーンが進む。小倉や門司を舞台に、それほど美しくもない自然とばくぜんとした都市の風景のなかで、物語ははじまり、終わる。シンプルなストーリーにシンプルな風景。自然光っぽいライティングのなかで淡々と撮られる。室内シーンも窓側からの光がメインで、主人公の顔は影になり、表情はつかめない。ちなみに健次が明彦をなぐるシーンがあるのだけれど、ちょっとあてていないのが分かりやすすぎた。
冒頭が舞台になる北九州市の空撮なのだが、軽飛行機を使っているのか右に左にけっこうな勢いで旋回しながら撮っている。そこですでに無意識に不安な感じを与えるだろう。撮影時のねらいなのか、DVDに落としたときの問題なのか、濃淡のレンジが狭く全体に白っぽい画面だ。

結論。『善兵衛が乾いた、シンプルで不穏な暴力のスケッチ。』