サッド・ヴァケイション

公式サイト

青山真治の北九州三部作の三番目。最初の作品『Helpless』(と『ユリイカ』)の続編だ。
『Helpless』の人物たちは、わからないままに内から突き上げるような暴力の衝動に身をまかせ、映画はスケッチのようにシンプルにそれを描いた。11年たって、監督はずっと饒舌に物語を語るようになった。映画はどことなくエミール・クストリッツァの『黒猫・白猫』を思い出させた。善悪の価値判断を簡単にしない、清濁あわせのむ、不思議に楽天的な群像劇だ。

主人公、健次(浅野忠信)は、前作で家族を失った。成長した彼は前作から関係がつづくユリ(辻香織里)、ふとした縁で一緒になった中国人の少年、それに一匹のウサギと擬似的な家族をつくろうとする。いっぽうでは彼に好意をもつホステス冴子(板谷由夏)も、彼と同居したいという。そんなとき彼はぐうぜん本物の家族と再会する。幼い頃に自分を捨てた母親(石田えり)だ。そこには新しい夫と、血のつながらない弟がいる。彼らは訳あって逃げ続けているひとびとを受け入れて住み込みで働かせている。健次は母親を激しく憎みながらも、なぜか彼らと同居して大家族の一員のようになる。しかしやがて・・・というストーリー。物語のコアは母親だ。家族を捨て、生き延びるために誰にでも体を許し、あるとき出会った夫と家族をつくった母。捨てた息子に再会しても悪びれず、「産む性」であることの強さを最大限に表現するタフな女性だ。
・・・というこの世界、でもどこかふに落ちない。簡単にいえば、人物の行動にいまひとつ説得力を感じないのだ。健次はなぜ母親と同居するのか、母親はなぜずっと育ててきた弟より兄を取り込もうとするのか、その夫はなぜそこまで寛容なのか、弟はなぜ家出するときあることをするのか、冴子はなぜラスト近くで姿を現したのか・・・・それぞれ、そこそこに説明をしているのだが、ふに落ちない。説明などなくても、非日常的であっても、リアリティを感じる人物造形というのはある。だけどなあ・・・・理由のひとつは、やはりプロットを借りてきていることだろう。
監督も言っているように、基本的なプロットは中上健次の小説『枯木灘』にもとづいている。作家が生まれた熊野の土着的な物語のようで、かなり抽象化された神話的な父子・兄弟の争いを描いた小説だ。父親は暴力的で善悪にしばられない人間。主人公である息子は生まれたときに父に捨てられ、母親はこの上なく寛大な男性と結婚し、成長した主人公は彼の仕事を任されるようになる。いっぽう実の父親には若い、暴走族の息子がいる。主人公は父を憎み続けるが父はそんな彼をもとめているかのようだ。彼はある時、父があちこちで生ませた女性のひとりと関係を持ってしまう。そしてラスト、河原で父の家族とであった主人公は義理の弟である彼の息子と・・・という内容。
映画を見た人なら、ほとんどのエピソードが置き換えられることに気が付くだろう。そう、ちょっと忠実すぎるのだ。『Helpless』の設定に『枯木灘』のプロットが乗っかった形になっている。そのために「実は・・・」といういいかたで前作の設定に意外な(あまり効果的でもない)事実が付け加えられたりしている。このプロットをオリジナルの物語として翻案するときに充分に消化しきれなかったんじゃないか、というふうに見えた。映画のなかの行動は参照先のテクストの中にすでにあり、後づけで理由が加えられる。だから「必然」の香りがすこし弱いのだ。
とはいえ、下敷きのあるなしに関わらず、それは監督の資質なのかもしれない。『Helpless』でも人物たちの行動はふに落ちるというタイプのものじゃなかった。しかし映画の語り口調が説明的に見えなかったこともあって、その分からなさもどこか不条理劇のようなトーンになっていた。でも『サッド…』は、それにくらべるとずいぶん説明的だ。だからこそかえって行動原理の弱さが気になりやすかったのかもしれない。

浅野忠信は、相変わらずの不穏な空気感でそれなりの説得力を見せる。温和に働いていても、なにをやらかすかわからない雰囲気は常にあって、最後にふたたび現れる唐突な暴力にも説得力はある。ただ前作と同じで性的にはとてもお行儀がいいようだ。 石田えりも、息子から見た母性のうざさのようなものは充分に表現している。でも清濁あわせのんだ凄みはそれほど感じない。その設定はセリフで語られるだけで、行動自体はこちらもごくお行儀がいいのだ。この二人のお行儀のよさが、よくも悪くも全体のわりと穏やかで薄味な雰囲気をうんでいる。群像をなす運送屋のメンバーたち、宮崎あおいはともかく、オダギリジョー嶋田久作は単なる添景あつかいでストーリーにはほとんど生きていない。

オープニングは『Helpless』と同じ北九州の空撮。次の闇夜のシーンが本当に暗いのに驚いた。画面が荒れるのもかまわず、たぶん普通よりはるかに少ない、最小限の照明で、本物の暗さを描いている。それからワンシーンワンカット長回しがけっこうある。長々と二人が語り合うシーンもあるし、健次が横たわったところから起き上がり、水に入って泳いでいく面白いシーンもある。そんななかで、ひとつのシークエンスの途中を少しカットしてとばすテクニックがつかわれ、独特なリズムになる。ちょっとドキュメンタリー的イメージでもある。場所のイメージか、監督の好みか、日本映画っぽくない抜けのいい、シンプルな風景が多い。

結論。『善兵衛的に清濁といってもそれほど濁ってない群像劇!』