ピアニストを撃て

<予告編>
1960年の作品。前年の『大人は判かってくれない』でデビューしたトリュフォーの2作目だ。『勝手にしやがれ』と同年の公開。もちろん年代なりにクラシックな雰囲気の画面。普通に楽しんだ。でもあまりコメントがでないなあ。アクションであり、悲しい恋の物語であり、くり返し喪失する男の人生の苦い物語なんだけど、描写は淡々としていて、どの場面も長々と盛り上げることはなくて、どこかあっけない。男の人生には喪失が繰り返される。ヒロインは、主役の今と過去の恋愛の相手ふたりで、さすがどちらもきれいでキュート。
ストーリー:シャルレ(シャルル・アズナブール)は場末のバーのステージに立つジャズトリオで毎晩ピアノを弾くピアニスト。演奏に乗せて女や男がさわがしく踊る、そんなバーだ。ある晩、ふいに兄が店に転がり込んでくる。兄はギャングに追われていた。なんとか彼を逃がしたシャルレは帰り道に店のウエイトレス、レナといい雰囲気になる。実はシャルレはクラシックのピアニストとして人気絶頂だった過去があった。けれどある悲劇があって演奏活動をやめ、今はこんなところにいる。レナは彼の過去を知っていてもう一度光のあたる所に出てほしいと思っていた。けれど次の日、シャルレもギャングと兄の騒ぎに巻込まれる。ギャングはあきらめていなかったのだ。騒ぎはレナやバーの店主や兄弟を巻込んで予測不能な方向へ転がっていく…
思ったのは、この映画の犯罪や犯罪者の描き方、トリュフォーのオリジナルだとすれば、数十年後のタランティーノ北野武が得意にするスタイルの祖型のひとつといってもいいのかも、ということだ。当時のノワールとかにこういう雰囲気もあったのかなぁ? 映画のトーンはべつにコメディじゃないんだけど、いわゆるオフビート感がけっこうあって、特に兄や彼を追うギャングの描写がすごくその感じなのだ。そもそもファーストシーン、ギャングに追われる兄が街灯に頭をぶつけて、たおれるシーンがある。おかげでギャングをいったんやりすごした彼は助け起こしてくれたおっさんと夫婦の話かなんかを始めるのだ。でもその会話はそれっきりで、後になにもつながっていない。ただその会話のためだけのシーンだ。ストーリーと関係ない会話のシーン。もちろんそういうパートを入れるの、意外とよくある構成ではあるけど、ここではその肩すかし感においてかなりのものはある。

それからギャングたちの描写もそうだ。ギャングは兄が見つからないのでシャルレを拉致して車に乗せる。その後レナも車に押込む。ところが暴力的に連れ出したわりに、その車中では女をめぐるなんだかのんびりした世間話をはじめてしまうのだ。拉致されたはずのシャルレもレナも妙に気の効いた返しをするし、ギャングはギャングで愛嬌のある自分語りをつづける…そのあと子供を拉致したときも同じ。このトーン、タランティーノそのものといってもいいくらいだ。『パルプ・フィクション』でも『ジャッキーブラウン』でも。でもコメディじゃないから、たとえば三谷幸喜の映画にでてくるヤクザみたいな(たとえば『ザ・マジックアワー』の)間抜けでお人好しの犯罪者じゃない。銃撃戦になれば普通の悪役の雰囲気でためらいなく人を撃ち殺すのだ。愛すべきなようで愛させない悪役。正直へぇーと思った。
主演のアズナブールはぱっと見小柄でそんなに色男でもなく主役としてはなんだか冴えないけれど、繊細で人生にあきらめている哀愁はものすごく出ている。でもこの時点ですでに売れっ子のシンガーで、そういう意味ではこの映画スター映画なのだ。そこも意外といえば意外。「冴えないモテ男」キャラクターだ。コメディじゃないといいつつ、コメディ的演出もいろいろな所にある。たとえばレナを送って帰るときの、誘うべきかどうか、的なありがちな葛藤が「内なる声」で再現されたり、シャルレがアパートの隣人の娼婦と遊んだ後の一言だったり。それでいて悲劇のところはがらっと変わって急転直下悲劇に滑り落ちる。そんな映画だ。
ちなみに、もう何万回も解説されてることだろうけど、『ピアニストを撃て!』というタイトルは、昔、西部の無法地帯のピアノバーにあった「ピアニストを撃たないで!」という決まり文句のパロディーだそうで。