彼岸花



佐分利信主演シリーズの1本。
佐分利信のこの重量感。生身ながら大魔神のような重量感だ。この重量感こそ、今の日本のショウビジネス界にもっとも欠けているものだ。三船敏郎はもちろん、若山富三郎や、そして佐分利信のような、ずっしりとした存在感のある役者は消え去った。三国連太郎もさすがに年を取って、たとえば悪徳政治家や大物経済人の役なんかに合う役者があまりいなくなってしまった。津川雅彦なんて本来軽妙さが売りの役者だし、中尾彬はふつうに脇役、なくなった緒方拳はちょっとスマートすぎる。・・・でもまあなあ。現実の首相だって何代さかのぼっても重量感ないんだから、役者だけのはなしでもなく、ある意味無理もない。

さて佐分利シリーズは、中村伸郎・北竜二との同級生トリオでおなじみだ。「秋日和」でもおなじメンバーによるトリオが結成され、「秋刀魚の味」では佐分利にかわって笠置衆が入ってトリオとなる。その時点ですでに充分にリピート感があるわけだが、このトリオはどの作品でもおなじような料亭の小上がりでおなじような会話をかわし、おなじような衣装やアングル、しかもおなじ女将さんが酒を持ってくるので、見るものにはげしいデジャブ感と、すべてが溶け合ってひとつになったような、独特の「どれがどれだか分からない感」をあたえるのである。まずこの世界に入り込むためのイニシエーションが必要と思えるほどである。

彼岸花」での佐分利信仏頂面をかたときもくずすことはなく、今の感覚からすればずいぶん乱暴な口調で家族と接する。かつての日本におおかった「なんだかいつも怒っているような」おじさんである。そして娘役有馬稲子のおどろくべき美貌。ストーリーの骨子は「他人の娘の結婚にはおおらかなくせに自分の娘に男ができるとむすっとする父がやがて娘の恋愛結婚を受け入れるまで」で、このネタバレはおどろくほどまったく小津の映画を楽しむためのさまたげにはならない。そこが小津。だから何度でも楽しめる。サブストーリーとして笠置衆の娘のドロップアウト(とよぶにはあまりに上品な)を収拾することになった佐分利信が、これまたいつものスナックへと流れ込むエピソードがある。

今回はコメディリリーフ、話をドライブさせる役として京都人母娘が機能。なかでも母は京阪神の区別がつかない東京人にとって「関西のおばちゃん」の一典型をみごとに造形し、むしろこれこそが今のわれわれのおばちゃん像の原型だったのかと思わせるほどだ。このおばちゃんが、佐分利の家をたずねたときに、便所をかりるついでにさかさに立てかけてあったホウキを上下逆にもどすシーンが笑える。東京人からするとこれは京都のいじわるい風習として見ているからね。

この娘山本富士子佐分利信の関係は小津映画でたびたび出てくる「伯父=姪的関係(じっさいの血縁がなくてもよい)」の一典型である。おじは美しい姪にそれほど責任を持つことなく、けれどほどほどにかまう口実があり、また若い娘のほうもかしこまっている様子もなく気軽に会いにくる。これが映画の公開当時にふつうにある関係だったのか。監督の好みからうみだされた関係性であるのか。性的な緊張感なくおじと若いレディが交流するこのスタイルは、観客にいたであろう大量のおじにとってのほのかなファンタジーとしても機能していることはあきらかだ。

これと同じくらい重要なのがトリオの「同級生的連帯」である。大学生というのが今よりずっと稀少だった時代、大卒ということで自然と社会的地位もほどほどのところで統一感があり、交流が長く続きやすかったのか。物語の軸となる同性の関係は基本的にこれである。職場の人間関係はサブ的あつかいで、世代がことなる関係(伯父=甥的でもある)だ。そもそも小津は仕事というもののリアリティにほとんど興味がなく、会社役員や管理職らしい彼らもせいぜい書類にはんこをつくだけで、友人が訪ねてくるとかんたんに仕事を中断してしまう。そういう意味では妙なしがらみの少ない同級生のほうがおさまりがいいのだろう。

話は東京駅ではじまり、蒲郡、京都、さらに広島へ向かうところで終わる。のっけからホテルのシーンで小津らしい「水平垂直のフレームのなかで静的にうごくひとびと」が出てくる。有名な画面の中の赤いアクセントでは画面右上ぎりぎりにある赤いラジオが特筆もの。わざわざ夫婦のあつれきの焦点にして目を引きつけている。途中で京都の母が検査入院するのが明石町(築地)の聖路加国際病院。この今はない、うつくしすぎる塔のショットにみんなで涙をながそう。

結論。「善兵衛もちろん絶賛!」