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ストーリー:アート(マイク・ファイスト)はグランドスラムで優勝経験があるプロテニスのトッププレイヤー。調子を落とし、妻でコーチのタシ・ダンカン(ゼンデイヤ)の勧めでワンランク下の大会チャレンジャーに出場する。そこには落ちぶれたかつてのライバル、パトリック(ジョシュ・オコナー)も参加していた。13年前、2人はお互いタシに恋する関係でもあった.....
チャレンジャー、少し前に怪我から復帰した錦織圭が参加したときに知った大会だ。実績がない新人も、めがでないベテランも、調子を取り戻したいトッププレイヤーも混じり合い、ドラマの舞台としてはいい。観客席は小さくオフィシャルもこじんまりしている。
本作の物語自体、言葉にしてしまうとそんなに派手じゃない。10代後半の有望プレイヤーだったアートとパトリックが、同年代のスターだったタシに憧れ、大学時代を恋のライバルとしても過ごし、30代になってそれぞれに年齢を重ねて地方都市の小規模な大会で再会する。3人それぞれに10代の全能感で見ていた未来とは違うところに行き着く、ほろ苦さもある物語で、撮り方によっては味のある小品になりそうだ。
しかし本作の味はまったく違う。絵は華やかだし、映像もストーリーもドライブしていくし、全体にメジャー感がみなぎっている。おなじボールゲームというところで『ピンポン』をすぐに思い出した。あれだって高校部活の卓球という地味な題材を格好いい映像とヒーローものめいたキャラクターでポップに見せた。
©2024 Warner Bros. Ent. METRO-GOLDWYN-MAYER PICTURES INC. via imdb
まず映像。男子選手はトッププロにしては身長が低くめだけれど、そこは言いっこなしだろう。プロレスラー役の『アイアンクロー』だって役者はジュニアヘビー風の体格だったしね。打ち合うボールは多分『ピンポン』と同じですべてCGだと思う。動きで説得力を持たせているんだろう。ボールにカメラが乗っている体のPOVは正直やりすぎだと思うが素人目にはとにかく見飽きない。
音楽の載せ方はレビュアーたちが全員コメントするところで、強制的にテンション高めの気分にさせられてしんみりすることは許されない。テニスシーンだけじゃなく会話や心理が動くところでもかかる。
それにもちろんキャスト。ゼンデイヤが物語を成り立たせているのは間違いない。2人の間を揺れ動くお姫様になりそうなところが、男2人が見上げる文句なしの支配者に見える。『DUNE』や『スパイダーマン』では健気でまっすぐな、熱血物語に出てくる女子的なキャラクターだったのが、若干非現実的なプロポーションもあって、超越性すら感じさせる。アート役のファイストは「アメリカの森山未來」の異名そのままに独特のストイックさとアンバランスなマッチョさを組み合わせ、オコナーは「悪童系」プレイヤーの伝統をさりげなく表現してみせる。映像的にはむしろ2人の方が性的な視線で撮られているふしもある。
物語自体、青春期の終わりの物語ではあるけれど、しんみりした青春回顧ものではぜんぜんない。まず全面にセクシャルな空気が横溢しているし、その中心にいるタシは男性2人が熱すぎる性的な眼差しをむけているのは十分以上に承知しながら、本人は自分が挫折してもテニスでの強さだけを見ている。男性2人はテニスへの情熱と性的エナジーがもはや不可分に一体化し、表層の意識としてはヒロインに向かいつつ、実際お互いにもむけられている。
この辺りの描写は少し前だとあるジャンルの枠に限定されていたと思う。観客も『ブロークバック』的にわかった上で見に行った。近年急速にあらゆる関係性が混じり合って見せられるようになった。『ソルトバーン』ではカウンターとしてあえて前面に出してる気がしたけれど、本作ではトライアングルの関係性の本質に組み込まれている。ヒロインはそのことをはっきりと分かっていて、虚しさを感じるというよりクライマックスでは「そう、そこだよ!お前ら」と心でガッツポーズを取るのだ。
ストーリー:イタリア北部の田舎を家族でバカンスで訪れた17歳のエリオ(ティモシー・シャラメ)は大学教授の父が招待した大学院生オリヴァー(アーミー・ハマー)に惹きつけられる。二人はいつの間にか友情をさらりと超えて夏の間親密な時間は続く....
グァダニーノ監督作はあと本作だけ見ていた。脚本は『モーリス』『眺めのいい部屋』の監督ジェームス・アイヴォリー。すごく粗雑な言い方をすると、本作は1980-90年代頃のイギリス系美青年同士の恋愛もの(『モーリス』的な)と似た受容のされ方をしていたと思う。クラシックな画面と描写、美形のシャラメとハマーの配役、それなりの悩みはありつつ、一夏のエピソードレベルを逸脱しない、穏やかな物語。
ヨーロッパ映画の一ジャンルとも言える「教養人たちのバカンスもの」の枠内でもある。登場人物の社会階層は限定されていて、シリアスな社会問題が前景化してくることはなく、主人公たちのちょっとした心のざわめきを穏やかに描く。
とはいえそこにはやっぱり濃厚に肉体と性のエネルギーの噴出が描かれている。1980年代前半のアメリカ文化の中で同性愛をオープンにすることはまだまだリスキーだったはずで、そのちょっとした苦しみのシーンや、さらにその前の世代が理解を示すシーンも、観客の印象に残るように描かれている。