箱男 & 砂の女 安部公房2作

 

youtu.be

<公式>

ストーリー:時代がわからない日本のどこか。元カメラマンの〈私〉(永瀬正敏)は箱男。街中の箱の中から人々をじっと観察してノートに記録する。そんな彼の前に偽医者(浅野忠信)と看護師(白本彩菜)が現れる。彼らの診療所にはもう一人軍医と呼ばれる老人(佐藤浩一)がいる。偽医者も自分もまた箱男になろうとしていた......

2024年公開、石井岳龍監督。石井監督は1980年代、原作者安部公房に映画化を託されていた。作家はなくなり、最初の映画化企画が1997年にトラウマ級のタイミングでぽしゃり(公式やインタビューで出てくる)、2013年に企画が再始動して、そこから10年かかってやっと完成だ。原作の権利者は忠実な映画化を望んでいたそうで、ストーリーも映像的なイマジネーションも原作から大きく離れようとはしていない。

原作の箱男は、特別な1人じゃなく、一種の社会現象ということになっている。箱の作り方描写もあって、日本中でありえるイメージなのだ。箱に入れば社会的に身体が消滅して、純粋な視線になれる。それが「男」と限定されているところがキモで、見ることで何かを奪いたい(でも身体的に相手に向かい合いたくない)という男に多い窃視の欲望をいってるんだろう。映画でいえば石井監督の同時代、塚本晋也の『六月の蛇』がそのテーマで、ちょっとファンタジックに「見られることで自分が解放される」女性を置いて美しい話にしていた。

カメラはその道具で、だから主人公はカメラマンだし箱自体がピンホールカメラになって外の風景が映るシーンが映画にあった。だけど後半では主人公は運命の女性(だと思った人)と2人で闇の中に入り、つまり自分が見られないのと同時に相手への視線からも解放される。この感覚は僕も一度疑似体験したことがある。『ダイアローグインザダーク』という体験型イベントだ。グループで(知らない人もまじって)完全な闇のルートを歩き、ちょっとしたゲームをする。お互いの視線から解放されていることが意外なくらいのリラックスになって壁がなくなることに気がつくのだ。コンセプトはそれだけじゃないけれどすごく印象的だった。

原作はもう一つ、叙述スタイルを(語り手を)自在に変えて、物語内のリアリティのレベルを混乱させる。登場人物が語り手の存在を意識しだし、時には語り手の座をうばいあっているようにも見える。語り手を混在させる文学、『哀れなるものたち』の原作もそうだった。本作では原作にあった語り手の混乱は少し残し、ラストでは、じつに映画的に、いわゆる「第四の壁」めいたメタ描写にしている。登場人物じゃなく作り手がこちらを向くのだ。正直にいってその投げかけは古典的に感じた。誰もがいう「エヴァじゃん」のところだ。ある種承知で、文学に対する映画の回答なんだろう。

全体の雰囲気は、あえて少し古臭くしているように見える。登場人物の行動や設定は原作通りだからしょうがない。風景も「昭和」にも見える場所を選んでいるし、カメラマンの私が使う機材もフィルムカメラだ。ビジュアルも撮り方も、ちょっと80〜90年代アヴァンギャルド的な感じでもある。あとキャストがあまりにも濃いので、当然それが映画の魅力なんだけど、匿名性に埋没したい男どころか、身体性も固有性も溢れ出してしまっている感じはある。

ヒロイン絡みのシーンは3人の男たちの変態性の群舞みたいになっているのだが、原作の描写をはみ出すことはなくわりにお行儀良く映像化しているので、少し昔の映画の「若手女優体当たり演技」風の「頑張ってる彼女を美しく撮ろう」的映像になってしまい、その変態性が何かを伝えてくる感じでもない。

https://eiga.k-img.com/images/movie/101069/photo/b435ffd8a4138191.jpg?1717582390

(C)2024 The Box Man Film Partners via  映画.com

そんなわけで、本作は作り手たちの結晶、という意味で受け止めたけれど、なんだったら別の解釈、別のビジュアライズも見ていたい...という気にはなってしまった。ちなみにヒロイン白本彩菜はいきなり完成度が高い雰囲気で、あとは声やセリフ回しをチューンすれば外国映画の多国籍キャストでも十分映えそう。

 


 

🔹砂の女

youtu.be

ストーリー:主人公は学校の教師。昆虫採集が趣味で、砂丘にやってきた。帰りが遅くなり地元の人のすすめで民家に泊まる。家は砂丘を掘り下げたくぼ地の底にある。家の主は夫と子供を亡くした若い女。翌朝帰ろうとした主人公はくぼ地から上がるはしごがなくなっていることに気づく。村人たちは最初から彼を帰すつもりはなかったのだ.....

安部公房作品映画化の代表作だ。アート系作家勅使河原宏監督、1964年公開。本作は配信がないから、DVDレンタルが消滅した今すごく見づらくなってしまった。まぁネットを漂流していればひょっとするとどこかで....  それはともかく、箱男よりもミニマルでその分時代性を超越したアヴァンギャルド感があるのが本作だ。

映画の舞台は戦後らしき現代社会で、謎の村も大量にある砂を土木建材として売って財源にしていて、穴の底に住む女も内職をして外の世界とつながっているし、何かあれば病院にもいける。彼女が欲しがっているのはラジオだ。だけど舞台は砂丘の穴の底だけ。一瞬穴から脱出しても無限に砂丘が続き、やがて底なし沼のような軟泥地帯になってしまう。

監督はひたすらに砂を撮る。砂丘の砂は『デューン』みたいなどっしりした大地じゃない。常に崩れ、風で動き、形を変えながら人間の居場所を飲み込もうとする。家の中にも少しずつ侵入してくるし、ちょっと気を抜くと服にも肌にも張り付いている。そんな、意思を持った環境みたいに砂を描くのだ。まるで『惑星ソラリス』の海みたいに。

それでいて砂は砂であり、科学的探究の素材でもある。主人公は砂地に穴を掘ると毛細管現象で淡水が溜まる現象に気がついて装置を発明する。理系作家安部公房らしいディティールだ。あと砂が土木素材になる話を主人公と女がするくだりがある。海辺の海水を含んだ砂はコンクリートに使うと塩分の影響で鉄筋が劣化するから規制されていた(と思ったら海砂や海水でコンクリートを作る技術もあるそうで)。そんな話題がいやに具体的にセリフに出てきて面白かった。

物語は主人公の一種の脱獄ものとしての面白さもあるし、謎の村ものでもあるし、もちろん極限まで抽象化した寓話でもある。武満徹の不穏な劇伴が砂丘の風音みたいに流れ、1960年代の前衛感が十分に楽しい。