子供から見た大人、大人から見た子供〜 アフター・サン&カモン カモン

■アフターサン

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ストーリー:11 歳の夏休み、スコットランドに住むソフィ(フランキー・コリオ)は、離れて暮らす 31 歳の父親・カラム(ポール・メスカル)とトルコのひなびたリゾート地にやってきた。 カラムが持っているビデオカメラでソフィは父を、カラムは娘を映す。..... 20 年後、ソフィはその映像を見返していた。ソフィの想像はあの時の2人に、そして自分といない時の父へとひろがる…

監督シャーロット・ウェルズ、2022年公開。一見、ノスタルジー系の「わたしとおとうさん」モノで、思春期になり始めた娘と、多分離婚ではなれてしまった父の微妙な距離感とか、それでも精いっぱい娘を楽しませようとする不器用な父とか、ぱっとしないビーチリゾートがかえって思い出としてリアルになる感じとか、切ないエピソードの材料はそろっている。それを大人になったソフィが回想するのだ。

楽しかった家族の思い出を古い映像で見返す...たぶんいろいろあるけど『パリ・テキサス』はお手本の1つかもしれない。古い8mmフィルムの色あせてぼんやりした画面、その中で笑っている若い日の妻を男が見返すシーンだった。本作はそれがホームビデオの階調の粗い映像になる。

古い映像のルックが自動的にノスタルジーを喚起するというのも、ここ50年くらいでぼくたちが身につけた感覚だろう。映像の古くささが距離感の尺度になる。古いフィルム風に動画を変換するアプリもある。8mmフィルムで普通の家でも映像を撮るようになったのが1970年代、ほとんどのユーザーは実機と縁がないけれど、フィルム調画面のノスタルジーは共有できるのだ。いまや劣化のないフルデジタル動画がクラウド上に残る。将来プライベート映像の「今」は変わっていくだろうけど、その時代のノスタルジックな映像ってどうなるのだろう。

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・・・と言ったものの本作に流れるのはただのノスタルジーじゃない。語り口はエモーションが高まる前にふっと切れて次のエピソードに映る。それに父周辺に隠しようもなく不穏な雰囲気がとりまいているから、見ている側はなにか起こりそうな不安感をかきたてられる。あいだに「なんだろう?」という暗い室内でフラッシュライトを浴びながら踊り狂う人々のショットが繰り返される。目をこらすとそこには大人のソフィがいるかと思うとカラムらしき人も写り、しまいには幼いソフィらしい子がいる。それだけでも見る側はストレートな「物語内の現実」を見せられているんじゃない、と感じるようになる。リゾート地の2人を写しているシーンの現実性もどこかあやうくて、象徴的なカットが入ってきたりする。

実は物語の中でたしかなのは一見ノスタルジーを掻き立てる役のビデオカム映像の方なのだ。実際の物語を描いているような「普通」の映像は、むしろソフィの記憶でもあり、だから虚実も時制もあいまいだ。ちょっと面白いのはその中にすごく具体的な意味を持ってヒットソングが使われる。歌詞が物語のメッセージを代弁している。R.E.M のLosing my religionでありクイーンのUnder Pressureだ。

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2人が過ごしたリゾート地はFethiye。地中海というかエーゲ海に面した街だ。物語の中で父がじゅうたんを買い(けっこう高い)それを20年後の娘も大事に使っている。じゅうたんはキリムといって黒海沿岸やトルコの名産品。トルコ旅行に行けば必ず売り手がやってきて、気がつくと帰りの荷物の中に収まっていたりする。20年以上たったそんな1枚がうちの床にも横たわっている。

それにしても娘の11歳、父の31歳というのは絶妙というか、どこか「ちょっと手前」を感じさせる。娘は微妙な年代には幼く、ほぼ子供として機能する。父は何かに行き詰まるには少し若く見える。はまりきっていない2人の感じも語り口の宙ぶらりんな感じとあいまっている。そうでありながらラストだけはシンボリックでありつつ決定的な、何かを叫んでいるようなシーンだ。

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■カモンカモン

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ストーリー:NYで1人暮しのラジオ・ジャーナリスト、ジョニー(ホアキン・フェニックス)は、妹(ギャビー・ホフマン)の9歳の息子、ジェシーの面倒をみるためLAに来た。不在の両親の代わりに甥っ子と向き合うジョニーだが、ジェシーはただの無邪気で幼い子供とはちょっと違う。仕事でNYに戻ることになったジョニーは、まだ両親が戻らないジェシーを連れていくことにする....

監督マイク・ミルズ、2021年公開。『アフターサン』に比べるとずっとオーソドックスで、物語のエモーションもすっと入ってくる。こちらは大人であるジョニーが子供であるジェシーと向き合い、少しずつ理解していく話だ。子役のウディ・ノーマンはある性格類型の子供をみごとに演じて、ちょっとむずかしい子供の、それでも健気な感じを再現するし、観客が感情移入しやすい古典的な可愛さもそなえている。

ジェシーは知能が高くて、自分の世界を確立し始めている。ジョニーにも容赦なく核心をつく質問をぶつけたりして、あるいは苛立たせることをわかりつつそう振舞ったりして、ジョニーを疲労させる。学校に行っても、興味のない授業を落ち着いて聴いていられないタイプに見える。母親もあらゆることに疲れはじめ、ジョニーとも少し前に対立したばかり、芸術家の父親はメンタルが不安定で、単身赴任先で危うい状態におちいる。

そんなところから始まるけれど、物語のトーンはとても落ち着いていて穏やかだ。ぼくたちはホアキン・フェニックスが演じている時点で、この人物はどこかで暴力的に物語をひっくり返すんじゃないか、あるいは自己破壊的に何かに陥るんじゃないか、とついつい予感してしまうけれど、本作の彼は穏やかで、自省的で、相手の声にちゃんと耳を傾ける柔らかい演技に徹する。だいたい、物語の中で彼の仕事は全米各都市の子供たちにインタビューして自分たちの境遇や社会についての考えを聞くことなのだ。インタビューは台詞を言わせているわけじゃなく、ドキュメンタリーとして撮っている。

物語も、ネタバレは避けるけれど、不器用な大人が子供と一緒に過ごすことになって、お互いにだんだん心を開く、といういままでにもあった一種の王道だ。インタビュー映像もそうだけど、子供を一個の人格として尊重するスタンスがすごくはっきりしている。物語的にはヴィム・ヴェンダース都会のアリス』がすごく近い。疲れた独身男が子供を連れて旅をする物語。

都会のアリス』との共通点は映像についてもそうだ。大人と子供、そして彼らがいる都市風景をモノクロで魅力的な映像として撮る。本作ではデトロイトから始まってLA、NY、そしてニューオーリンズへと旅は続く。それぞれの街で、空撮で全体をじっくりと見せ、遠景で、街角のスナップショットで、街の表情のシーンに時間を取る。

穏やかでゆっくりとエモーションを盛り上げる音楽と、落ち着いたモノクロの映像のおかげで、物語にすごく没入しやすい。モノクロはどこか物語と距離ができるし、生々しさも減る。明暗のコントラストを強く出さず、暗い部分も明るめにして、微妙な明暗のグラデーションを繊細に見せる。構図もつねに安定していて、きわめてゆっくりとカメラを振ったり、ズームしていく。そんな空気の中で、ホアキンへの危うい予感もいつか消え失せ、ジェシーと同じようにぼくたちも信頼するようになる。