女のなかにいる他人


<予告編>
ストーリー:実直なサラリーマン、杉本(小林桂樹)は友人(三橋美智也)のセクシーな妻(若林映子)を不倫のプレイのはずみで殺してしまった。何も知らない妻、雅子(新珠三千代)にも、あきらめ気味の友人にも何もいえず苦悩する杉本。不眠症がひどくなって温泉に静養にいった杉本から雅子に呼び出しがかかる。ひさしぶりに2人きりになった雅子に、杉本は自分の犯罪を告白するのだった....

成瀬巳喜男監督、1966年。ほとんど最晩年の作品だ。新珠三千代がいい。好きだなぁぼかァ。1956年の『洲崎パラダイス 赤信号』で映画デビュー(追記。これまちがい!彼女のデビューは1951年。『明日来る人』1955年のほうが先でした)、おなじ川島監督の『明日来る人』はなんだかつまらない美人さんだったけれど、1963年の『江分利満氏の優雅な日常』のふつうの奥さん、このあたりの三千代は基本的に好きだ。お嬢さん→宝塚娘役→女優デビュー の王道で、雰囲気からして真面目っぽいし危険な香りはないんだけどね。本作でいえば話が始まる前にすでに殺されている役の若林映子のほうがずっと今風かつ危険なセクシーさを発散していて、三千代は例によってひっつめ頭でどことなく長方形の顔が前面に出ている。彼女の名前で画像検索すると役にかかわらずひっつめ率の高さが明白だ。ちなみに名前で検索すると奇妙な政治家の名前がヒントとして出るけれど、そこはふれずにいこう。
本作の三千代は少し違うキャラだ。正直、演技はそんなに違いがわからない。貞淑で毒のない鎌倉の奥さまだ。奥さまはサスペンスの渦中に巻き込まれ、夫には不倫どころか殺人まで告白される。三千代=雅子は落ち込んだりパニックになるのかと思ったらぎろりと目をむいて「忘れましょう、それは」ときっぱりと言うのだ。罪の意識にさいなまれている杉本は「えええええ」となる。でも雅子は自分たちの生活を守るために、夫に楽になることを許さないのだ。けっしてね。雅子の怖さをだすためライティングで工夫したり目元アップで睨ませたりしている。

三千代ばかりじゃなく小林桂樹もいい。『江分利満氏』に続く夫婦役だ。監督は違う(あちらは岡本喜八)。映画会社的に「この2人はまり役だね」ということになったのかもしれない。多少、心理をセリフで説明しすぎのところもあるけれど、エンタメのバランスの範囲内という感じでしらけるほどじゃない。ほかの映画だとあまり好きじゃない三橋達也も、今回は抑えめの被害者役でわるくない。例によって何を考えているのかわからない感じがよけいな感情移入をふせいでスムーズにお話を流していく。
原作が海外ミステリーで、プロットはシンプルだ。事件は最初におこり、明示はしないけれど犯人は最初からわかっている。心理的追い込みほぼワンテーマでよけいな広がりもない。こういう心理劇的なクラシックミステリー、久しぶりにみた気がする。話にあわせてモノクロ画面はコントラストがくっきりして、家の中も闇があったり暗くなったりと変化がある。観客から見えない照明だけじゃなく、室内の照明も演出に入っていたりする。1951年の『めし』とくらべると、ライティングもクローズアップの極端さもちがう。10何年たっているからアップデートしてるところもあるだろうし、ストーリーにあわせた撮り方でもあるんだろう。

ちなみに、見た人じゃないと分からないけれど、この話、途中でじつは雅子と友人も不倫関係なんじゃないかと思わせるところがあって「三千代がダブル不倫? こいつはエキサイティング.....!」と身を乗り出したんだがどうやら違った。妻をなくした友人が、杉村たちの息子に異常に愛情を注ぐのだ(娘にはべつに)。それが表面化して雅子もやや慌てておさめようとする。やけに伏線ぽいんだよね…….あれはなんだったんだろう。
舞台は赤坂と鎌倉。小津の映画でも東京勤めの鎌倉住まいは多い。とうぜんいまより上流よりの勤め人なんだろう。横須賀線は電化されてからは戦前でも東京まで1時間程度で行っていたらしいから、使い勝手はおなじようなものだ。まあ停まる駅もいまより3つは少ないしねえ。60年代の鎌倉、ちょっとした小道や134号ができる前の材木座の景色が見られる。