皆殺しのバラッド 〜メキシコ麻薬戦争の光と闇


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メキシコーアメリカ国境に接する町、シウダーファレス。リチはこの街で勤務する警察官だ。国境の反対側エル・パソは全米でも有数の治安がいい街なのに、この街では平均、毎日10人単位が殺される。血だらけの現場に出動し、検挙のあてもない殺人の被害者と証拠品を回収する。麻薬組織はちょっとした小国レベルの軍事力を持っていて、警察もターゲットだ。だから警察官の方が顔を隠して出動する。フィクションではよく描かれていた、いわゆるメキシコ麻薬戦争のドキュメンタリーだ。原題は『Narco Cultura』。
カメラマンは出動する車輌に乗り込んで警官の主観ショットを撮る。現場に立入許可をもらって、回収のシーンも、持ち帰ったさまざまなモノを署で検証するシーンも撮る。モノのなかには少し前までヒトだったのもある。ゴア映像狙いのゲスい撮り方じゃないけれど、いくつかはぼかさないであえて撮るから、はっきり状態がわかる。公式サイトでも映画の最初でもこのことは警告されてない。変にハイライトされることを嫌ったのかもしれないし、ヨーロッパのニュースサイトだと、まともな新聞社や通信社でも死体写真を載せることはある。そのマインドかも知れない(でもあれ警告あるよなぁ)。いずれにしても一般商業映画の水準じゃないのは確かだ。この映画見よう!という人は一応そのつもりでね。
さて日本公開サブタイトルは『麻薬戦争の光と闇』だ。メキシカン・ギャングを描いた『闇の列車、光の旅』じゃないけど、使いたがるよねーこの手の言葉!この映画ぶっちゃけ光なんてないですよ。じゃあなんで? もう一人の登場人物を〈光〉にたとえているんだろう。LA在住のメキシコ系シンガー、エドガーだ。

昔はちょいとヤンチャしてました27歳は、いまでは2児のパパ。売り出し中のシンガーだ。ナルコ・コリードという、麻薬組織目線のギャングスタもので人気。旗色が悪く市民を守りきれない警察より、ギャングを反体制ヒーロー視する庶民のマインドにぴったりはまる。アメリカならありそうだ。メキシコで何やってようと、ようするに「ISISかっけぇ〜」といってるヨーロッパの移民の兄ちゃんみたいな、距離感がある存在だ。だからライブで武器しょってパフォーマンスしようが、「首切るぞ」と歌おうが、男も女も大盛りあがりだ。
メキシコ本国じゃどうなんだろう。家族や友達を簡単に殺すような組織をヒーロー視するんだろうか? それとも、この手の話で多いように、渦中にある街の人たち以外にとっては、ギャングはあんがいニュースで見るだけの存在なんだろうか? ナルコ・コリード、本国では放送禁止らしいけど….

エドガーたちも、見た目は「ワルやってます」を記号化したみたいななりで、メキシコの中でもある人種なのか、みんな小太りで大きな丸顔だ。でもじっさいは本物とは距離がある。せいぜい地元のギャングの注文で曲をつくって金や拳銃を貰うくらい。聴いた話やネットのネタを材料に、観客と一緒になって、隣国のアンチヒーローの幻想をふくらませるのだ。体型といい、『サイタマノラッパー』のIKKUを思い出したよ。そんな彼がホンモノを体感しにメキシコ旅行に行くのが後半。カメラマンも彼らについてギャングのトラックに乗ってパーティーにも行く。
エドガーの曲はこんな感じ。かれがリスペクトする先輩のコマンダー。しかしこのサウンド.....PVの凶悪さとくらべてホーン主体でなんとも緊張感がない。パーティーソングなのかね。映画でもメキシコでのパーティーに呼ばれて軽快に奏でるバンドが出てきた、あの感じがベースなのかなぁ。いくつかは聴いてくと微妙にボーカルにドスがきいてるのもあったりして、そのへんがらしさかもしれない。

監督はイスラエル人の報道写真家。なるほどねというか、ところどころやりすぎに見えるくらい、構図や光のコントラスト、フォーカスの移動なんかをドラマチックにキメて来る。さっきのエグい映像の扱いもそんな彼のキャリアから決まってきた立ち位置なんだろう。
終盤でエドガーたちはギャングが眠る墓地に連れてこられる。並んでいるのは墓というより廟で、つまり小さめのれっきとした建物なのだ。ミニチュアサイズの豪邸の街だ。最近20年くらいの流行りらしい。もちろんギャングたちの権勢の誇示のはての奇形じみたハリボテの街だ。でも、あんがい中南米の文化にあるのかもしれない。 ふつうのメキシコ人でも家っぽい墓を建ててるようだし、たぶん堅気でも家風の墓はある。国はちがうが、このサイトにでてくるブエノスアイレスのなんてふつうに街に見えるね。『千の風』の「そこに わたしは いません〜」感とは違う、死後の住みかの感覚なのかもしれない。