アクト・オブ・キリング


<公式>
これはほんとに特殊映画だ。ジャンルとしてはドキュメンタリーに属する本作の、画面の中のできごとは、なにがリアルでなにがつくりもので、的な混乱をみるものにぶつけるだろう。映画の前提は公式に書いてある。ぼくも知らなかった世界だ。1965年、インドネシアのクーデター未遂事件のカウンターとしておこった共産主義者たちの大量殺人。そしてこの映画のつくられかたとね。
1本のフィルムで、こういう巨大なできごとに向かい合うということ。作り手はいつも途方にくれるだろう。だって、1時間にしろ、3時間にしろ、どうやったって語りきれない膨大な事実が残るのだ。全体像をみせようとすれば、すかすかのサマリーになる。でも一片を切り取ってみせるのは、いままでに同じテーマのアーカイブがあって、観客が別の視点でそれを知ることができるのが前提だ。フィクションである『キリング・フィールド』にしろ『ホテル・ルワンダ』にしろ、美化しているとか十分描ききれていないとかの批判はかならずあるわけだ。

この映画はさらにむずかしいところに切り込んでいる。上の2つのフィクションは、被害者が生きようとする姿をメインにして、事情がじゅうぶんわからなくてもヒューマンな感動があるようにはなっている。でも本作は加害者側が主人公なんだからね。監督はインタビューで、こういう事態を被害者側から描くときにクリシェにはまる危険についてはなしている。観客も安全圏から単純に共感すればいい、そんな描写になりかねなない。加害者を主人公にするとそうはいかない。かれらは分かりやすい悪役じゃないから。
そして説明的になることもできるだけ回避している。映像の断片とか、加害者だった彼らがはっする言葉のはしはしでそれをつかんでもらおうという描写だからだ。もちろん作り手はこの映画が1面的であることは百も承知だろう。概観のオーソドックスな説明は、たとえばアル・ジャジーラこのドキュメンタリーみたいな作り方だろう。バリ島で取材していて加害者側だった老人たちにもインタビューしている。かれらも結構衝撃的で、本作の元加害者以上に「殺人者」っぽくないのだ。まったくね。優雅な伝統舞踊の踊り手とかだ。でも言っているセリフは…….
監督ジョシュ・オッペンハイマーは、世界的にほとんど知られていなかった大量殺人の歴史について、まずはとにかく異様なインパクトがある作品を投下して、世界的な注目をあつめることを狙っただろう。それはインドネシア国内にもインパクトをあたえたし、ぼくもそうであるように何も知らなかった世界中ののんきな市民に「ええっ」という衝撃をあたえて、同時にいまのインドネシアのありようにも思いをはせさせた。監督は被害者側メインで取材した次作を製作中だという。

それにしても、なんだろうこの不思議さは。映画の骨格は、加害者側に、自分たちがほこらしげに語る殺人の場面を映画の一場面として再現してもらい、それを撮る、というものだ。作り手はもちろん加害者側を糾弾する立場で、撮影前にその立場はつたえている、といっている。そして彼らが自分たちを正当化する映画をつくるつもりでノリノリで出演し、演出のアイディアも出した映画は、たんなる断片的な素材としてあつかわれ、そんな彼らをさらに外側からメタ視点で見るような作品になっている。
主演級は加害者だった老人と彼をしたうデブのギャングの2人しかいないから、場面ごとにまったく役が変わる。老人は加害者だったと思うと、後半では首をしめられる役になる。デブも殺人者だったりディヴァインさながらの(ジョン・ウォーターズでおなじみ!)金魚みたいな女装キャラになる。さらに不思議なのは、うえで書いたみたいな意図とはほとんど関係ないだろうというシュールな映像も監督はわざわざ撮ってしまうのだ。あれはいったいなんの噴出なんだろう。

本作の主人公アンワルはさっき紹介したアル・ジャジーラのドキュメンタリーにもでてくる。そこではふたたび「いや悪いとは思っていない」という立場にもどる。でも監督とスカイプかなにかで語り合うと、「この映画のせいでいろいろ辛いことになってるんだ…….」という。監督は「あなたはぼくたちと一緒に歴史を見返す勇気をみせてくれた、一生忘れないよ」とかえす。でもアンワルは画面は見ずに、顔をおおって部屋からでていってしまう。