カリスマ

<予告編>
黒沢清による<エコ+ホラー+ファンタジー+不条理人間ドラマ+ヒューマン思想>的映画。1999年。
ストーリー:刑事の蓮池(役所広司)は休暇を取らされて森に入る。そこには「カリスマ」とよばれる奇妙な、怪物的な木があった。その木を守るもの、排除したいもの、それを奪いにくるプラントハンターなど人間たちの思惑がうずまいている。やがて蓮池自身も周りの状況も奇妙さをましていく…
初代カリスマ。
この映画、なんで冬に撮ったのか不思議だ。主要なモチーフは「木」と「森」なんだよ。木や森は生存のために闘争するダイナミックな生命だ、と説明される。でも冬枯れの森や草原は半年間のお休み中だ。森は生命感がとぼしく草原も枯草ぼうぼう、「カリスマ」自身一枚も葉がない、樹皮を剥いだみたいな貧相な枯木…なんでその風景で描こうとしたんだろう?
「いろんな事情で」の可能性は置いといて、その「死」の香りを映したかったのか。それともカリスマを抽象的な存在にしておきたかったのかな。春や夏設定だとして、実在の葉をつけるとカリスマの怪物感がないし、異様な葉を作ると今度は外観が必要以上に意味をもってしまう。監督はそれを嫌ったのかもしれない。じつはカリスマの怪物性が映像で表現されることは一度もなく、ひたすら周囲の人間たちの証言と大騒ぎですごいものに見えている。つまりこの木はいわゆるマクガフィンなのだ。「アキラ」とか半熟巨神兵みたいなものなのかもしれない。怪物的な力を持っているがまだ十分成長していなくて、人間の世話が必要な弱々しい存在でもあるという…物語の後半でバオバブみたいな幻影の巨木がふいに画面にあらわれる。あれが育ちきった怪物「カリスマ」のほんらいの姿なんだろう。

この映画では人間社会の闘争が植物に投影される。蓮池は多数の安全のために個体を殺すこともいとわない警察になじめずに森に入り、カリスマを守る青年(池内博之)に出会う。カリスマは強力なアレロパシーを持ち、自分が発する毒で周囲の植物を枯らす。すこし離れた森の木も枯らしてしまう。青年はそういう生存をかけた闘争が世界の法則だと信じている。こういう木は実際にある。オニグルミという木は葉から化学物質を発してライバルの木が近くで育っていても枯らしてしまう。そうして自分の生きるスペースを確保するのだ。浦沢直樹の『PLUTO』にもこういう怪物的なチューリップが出てきてた。もちろんシンボルとしてね。カリスマの性質を説明する生態学者(風吹ジュン)はバランスのくずれた森に心をいため、カリスマを排除すべきだと思っている。つまり警察と似た立場だ。蓮池はそのどっちにも立たない。最終的に彼はいう、「森」なんていう集団はない、それぞれの個体があるだけで、どれも生きるべきだ…いいこと言ってる風だけどまるで解決になってない。
巨大化した幻影のカリスマEvo
現代の人間は、その「個」を最大限に尊重される。だけどそれをそのまま木や森にあてはめるとなんだかずれた話にならないか? あくまで寓意だっていうならわかるけどね。いつもぼくが感じるのは木にとっての「個」の境界というのは動物である人間よりずっとあいまいなんじゃないかということだ。たとえば身体の一部を切り取って簡単にクローンが作れるのが木だし、本体が朽ちて倒れてもそこから若い芽が出てきて再び巨木になるのが木だ。この「世界のすごい樹」の中の"Quaking Aspen"という「木」は森全部がひとつの生命体(巨大な根のネットワークでつながっている)で、個々の木に見えるものはそのパーツにすぎない。この木でなくても森が単純な個の集合だとはいえないだろう。

ちなみに映画のなかの<カリスマと周囲の森とどちらの生命を優先するか>問題。生物多様性保全の立場で一般的に正しいのは実はプラントハンターだ。森を残し、貴重種のカリスマを生かした状態で掘起こし隔離する。ここでの問題は、映画の問いとは少し違って「本来そこにいたやつと外から入ってきたやつ」の差だ。生物多様性保全から見れば自然発生的にそこにある群落や種は「その場所ならではのもの」で、人の影響で後から入ってきたものより確実に「そこにあるべきもの」だ。ものすごくざっくりいうとね。後から入ってきたものが強力に勢力を拡大するタイプだと「侵略的な外来生物」としてさらに警戒する…でもこれ、人間に適用したら、それこそ移民排斥の思想に簡単につながってしまう。「どっちも生きればいいじゃない」と思うひともいるだろう。人間ならもちろんそうだ…まぁどっちにしても映画の問いとは別のはなし。
カリスマ2.0。
で、この映画、映像や描写に嘘臭さやチープさがめだつのが残念だ。たとえばCGと実写の合成。この映画でのCG、特に幻想的なまでににょっきり生える巨大カリスマの木は、あまりにも書割りくさく、形態もリアルじゃなく、かといって幻想美術としてもなんかどうなのと。それから蓮池が「新しいカリスマ」とよぶ巨大な枯木。実物大模型なのだが、これがまた涙で画面がかすむほどにうそっぽいのだ。専門の工房の展示用擬木は、直にみても本物と違和感ないくらいにリアルなのがある。撮影用だって樹皮のテクスチャーなんかもう少し作り込めるだろう。どう見ても作り物だから、蓮池がその木にする世話もこっけいに見える。木の表面をタッチアップするみたいにちょこちょこ何か塗っているのだ。自律的な生命として木を描くならそんな水虫治療みたいな描写もないだろう。あと風吹ジュンが森をリセットしようとして「森の水源」である井戸に薬品を入れているのも奇妙だ。自然の森の水源がひとつの井戸って。ふつうは逆で森の土壌で受け止めた雨が地下に浸透して地下水となり、それが湧き水や井戸として人間に使われるのだ。寓意だとしてもなんか違和感ありすぎるでしょ。

映画の中での蓮池は平凡な男を自称する。でも周囲はそう見ない。ふらふらと定まらない彼の動きをなぜか対立する勢力のだれもが必要以上に気にするのだ。かれもまた一種のマクガフィン的存在だ。たいしたことはしていないけど、カリスマ1世がほろぼされてからすべてが暴力的に狂い始め、最後は上司の刑事までが「お前は何をやったんだ…」とうめき、彼が何かのトリガーを引いたみたいに森の外の世界にまで影響がおよぶのだ。けれどぼくはこの映画の役所広司があまり好きじゃない。この役にしては無為感というかシュール感というか、それがない。役所は見た目もふくめてどんな映画でも誠実でどこか暖かい役所であることをやめないタイプだ。この映画ではその役所っぷりがどことなくじゃまに感じた。
…というわけで公開10年以上たってからあれがちがうこれがちがう式の野暮な突っ込みをしている気がしないでもないけど、けっきょく寓意とリアリティのまざりぐあいがなんか中途半端に感じてしまったということかなあ。「森」をたんなる癒しとか神秘の園みたいじゃなく描いてみせてるところは素敵なんだけどね…