ラスベガスをやっつけろ & GONZO


<参考(imdb)><GONZO公式>
まずはジョニー・デップのファンで未見の人がいたら見るべきだな!有名な「デップのハゲ姿」のインパクトはおいといても、デップという役者のある面がわかるだろう。そもそも彼のこの役への入れこみは半端じゃなかったそうだし、役作りにもそうとう時間をかけていたんだからそういう意味でも。ハゲメイクももちろん役へのリスペクトだ。
原作はハンター・トンプソンというアメリカのライターの「Fear and Loathing in LasVegas」。1960年代にヘルス・エンジェルスに密着したレポートで名を売ったジャーナリストは、評伝から見ると3つの物を生涯愛し、というより生涯とりつかれていた。酒、ドラッグ、それに銃だ。ジョニー・デップとはいわないまでもなかなかの男前で、そしてもちろん、ハゲていた。本人の強烈なキャラクターをいかして、取材記事でありながら自分の主観を前面にだし、自分が出演者になるような「Gonzo Journalism」スタイルを確立。原作は1971年、そのスタイルで書かれた、彼の代表作だ。正確な意味でのルポルタージュじゃなく、自分と盟友のメキシカンの弁護士との体験をモデルにして主人公「ラウル・デューク」と「弁護士Dr.ゴンゾー」の物語にしあげた。ストーリーというほどのものはないんだけど、オフロードバイクのイベント取材という名目で、そのくせあらゆる種類のドラッグ満載でラスベガスにやってきたデュークが、取材そっちのけでDr.ゴンゾーとひたすら破壊的なさわぎを繰り返す、そして最後にわれに返ってラスベガスをあとにする、というだけ。酒とドラッグでゆがんだ目にうつる現実をたれながし、ときどきシラフになったのか内省的な文章がはさまる。そんな彼の生涯のドキュメント映画が『Gonzo』だ。
 若い頃のハンターさん。男前!
 その後のハンターさん
映画化もスムーズじゃなかったらしい。プロデューサーは最初『シド・アンド・ナンシー』(『エル・パトレイヨ』もね!)で知られるイギリス人、アレックス・コックスに脚本を依頼した。デューク役にはジョン・キューザックも候補にあがっていた。(ジャック・ニコルソンジョン・マルコビッチも候補になったことがあるとか…)。その後主役はジョニー・デップに決まり、監督はテリー・ギリアムになった。ギリアムは脚本を書き直したけれど、コックスたちの脚本が残っている部分がけっこうあると指摘されて、かれらの名前もクレジットされている。根っからのインディペンデントであるコックスは、デップみたいなハリウッドスター主演映画の雇われ監督じゃ、スターのわがままにハイハイいう雇われ仕事しかできないよ、と皮肉っているけど、まあ…そうはいってもかなりぶっとんだ映画なのはまちがいない。
デップはトンプソンと会ってすっかり心酔し、しばらくトンプソンといっしょにいて、そのふるまいやくせ、発語のしかたものみこんで役に生かした。映画でデップが着ている衣装は、トンプソンが70年代に着ていた服を借りたものだ。撮影現場にもトンプソンは来ていたらしい。コックスがいうまでもなく、監督としてはやりにくかっただろう。強烈な原作者と、原作者にほれこんだトップスター。これじゃ原作者の気に入らないことはやりづらいでしょう。それにしてもデップの役作り…コントすれすれだ。「ほんとにこうか!?」という突っ込みを禁じ得ない。すくなくとも 『Gonzo 』でのトンプソンはどの時代でもあそこまで妙じゃない。まあラリってた時の映像じゃないけどね… こういっちゃなんだが、ドーナツで15kg太るという役作りでのぞんだDrゴンゾー役のベニチオ・デル・トロの怪演のほうがさまになっている。体のでかいトロがラリって大暴れすると、理屈を超えた暴力性みたいのが画面全体に横溢するし、そこからシーンが変わると急にすました弁護士の顔に変わるコントラストもおかしいのだ。

映画は全編を通して、デュークとDrゴンゾーが酔っぱらうかラリってるか両方かで、ドラッグカルチャーと無縁の小市民であるぼくとしてはこのへんはファンタジーとして見るしかない。面白いのはどちらかが強烈にラリって幻覚を見たりパニックになっているときにはどちらかはわりと醒めていてリカバーしたりなだめたり冷ややかに見下ろしたりしてるのだ。古典的ドラッグカルチャー文学の映画化、というとクローネンバーグの『裸のランチ』を思い出す。あの映画の幻覚というかファンタジーシーンの薄気味悪いクリーチャーは、もうちょっとかわいい感じでこの映画の1シーンでも取り入れられている。そんな映像にとぎれなくデュークの独白がナレーションとしてかぶる。原作の文章へのリスペクトだろう。原作はいわゆる「主観映像」みたいなものだけど、Prodigyの『Smack my bitch up』 じゃないんだから、商業映画として撮る以上第三者視点で見せないわけにはいかない。それでも主観の声をかぶせつづけることでこの世界はデュークの視点なんだということがわかる。大騒ぎしてカオスになったホテルの部屋の景色と妙に冷静で内省的な文章の組み合わせが独特な効果で、またいい口直しにもなっている。
もう一つの口直しは砂漠の一本道をひたすら疾走する車の映像だ。ぼくはおおむかしに、最低ランクの小さいレンタカーに乗って友人とLAからラスベガスまで約460kmを往復したことがある。正直長かった。アメリカ人たちがレクリエーションで行くルートだろうけど、変化のない乾燥地帯の景色のなか、ひたすらまっすぐな道路は東名高速とはちがう疲れをよぶのだ。ここではでかい車がほしくなる。デュークたちは赤いシボレーでラスベガスに乗り付け、その後白いキャデラックのコンバーチブルに乗り換える。そしてお約束の、タイヤがこげるようなアクションじみたおおげさな走り。これがふとした解放感になる。こういう映画では欠かせない「ゴージャスな車がだんだんとボロボロに」もわすれていない。
この映画にながれているのは、ようするに「何かが変わる!」と信じてお祭り騒ぎで盛り上がった60年代の夢から醒めたしらけた感覚だ。ドラッグで頭をぐちゃぐちゃにするカルチャーだけが残り、進化してそこにある。二人は「もう一度アメリカン・ドリームを探して」といいながらこの街にくる。建築の世界で、ロバート・ベンチューリが「ラスベガスの俗悪な商業建築スタイルに近代の限界を超えたネタがある!」と論じたのが1972年。トンプソンが本気でそこに何かあると思っていたのかどうかはわからない。トンプソンは1972年や76年の大統領選のルポルタージュを発表したりするけれど、そのあとは代表作らしい作品もない。2005年に、彼は愛用の銃に自分の生涯の幕をおろさせた。
この映画、ぼくにとっては「マイ・オールタイムベスト」みたいなのを考えるとベスト10圏内にあがってくる一本だ。この荒々しさ、暴力性と、奇妙にスタイリッシュな乾いた風景の組み合わせに引きつけられるんだろうか。でも見返してもなぜか途中で寝落ちしてしまったり、微妙にがまんしながら見続けたり、見ようと思っても「今日はその気分じゃないな….」と思ったり、そうそうなんども見たい映画でもないのだ。なんだろう。