レイチェルの結婚

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*以下、けっこうネタバレです注意!
監督ジョナサン・デミの作品は多分『羊たちの沈黙』が一番知られているけど、僕にとっては『サムシング・ワイルド』というちょっと物悲しいコメディが代表作だ。スクエアなNYのヤッピー(懐!)が、ぶっ飛んだ女に出会って無理矢理レールから外れていく物語。この映画のキモは、女が主人公と故郷の田舎町に帰るところだ。田舎にもどると女の超ファンキーさは暗い過去の反動だったことが分かる。地味で弱々しかった、暗い青春時代。恋人だった地元の不良から逃げるようにNYに出てきた、そんなあやうい存在だったのだ。エッジイな髪型やメイクも、乱暴な口調も、ぶっとんだ行動も、急に物悲しく色あせて見えてくる。

この、エキセントリックと背中合わせの脆さや弱さ、今回の主人公キム(アン・ハサウェイ)とよく似ている。美貌と強烈な個性を持ってはいるけれど、過去のトラウマや、幼児的な孤独感の訴え、薬物依存、コミュニケーション能力の低さ、自己評価の低さからくる尻軽ぶり…あらゆる弱さをそなえたキャラクターがキムだ。キムは恐らく家族がいやおうなしに抱えこんだ歪みをほとんど一身に体現してしまった存在で、過去に取り返しのつかない事件を起こしていた。だから他の家族にとってはキム本人の扱いにくさにくわえて、彼女といると家族のダークサイドが見えてきてしまうから、どうしても居心地が悪い。

そんなキムが姉レイチェル(ローズマリー・デヴィッド)の結婚式のために自宅に帰ってくる数日間が映画の舞台だ。結婚式。これこそ家族のイベントの中でも最も「ハッピーでなければならない」という強迫的なシーンだ。よく考えると家族の儀式は誕生日とか、結婚記念日とか、逆に葬式とか、あるべき感情のステータスが決まっている、どことなく強迫的なものが多くないだろうか。だからよけいそういうシーンで逆の感情が噴出するという表現がドラマになるのだ。この映画の結婚式でも、もちろん家族はハッピーでいようとする。しかし割合早めにそれはあきらめて本音のぶつかり合いに移行する。最大の理由はたぶん、母親が不在だからだ。母親はすでに離婚し、よそよそしいゲストとして結婚式にあらわれるにすぎない。そしてクライマックスではキムに最大の懲罰をあたえる。今いるのは旭天鵬に酷似した後妻だ。そして残念ながら彼女は娘たちに受け入れられていない。

父親は、母親の穴を埋めるようにやさしく、決して怒らず、キムを常に受け入れる。しかし、どことなく奇妙なテンションを感じさせ、ひょっとするとこいつが家族のバランスの悪さの根源なんじゃないかとすら思わせる。象徴的なのが、新郎との「皿洗い機にどっちが早く皿を詰めるか」対決のシーンだ。とうぜんおふざけのはずなんだが、それにしては雰囲気が尋常じゃなく、なにか変なことが起きそうな緊張感がみなぎる。結局このシーンはキムの悪意なき行動が一気に父を滅入らせて終わる。カタストロフはおこらず、あとに残るのは「なんでこうなるのよ〜(泣)」というキムの声なき叫びだけである。

こうして徐々に追い詰められるキムは、実の母に最後の救いを求める。しかし母にとっても、それは忘れたい記憶を無理矢理掘り起こされるものでしかなく、耐え切れなくなった母は、それをいっちゃあ(マジで)おしめえよぉ的な爆弾発言プラスαへと至り、キムはすべての救いを失って破滅へと暴走する。でも。実を言えばそれが再出発へのキーでもあったのだ。自責の念に長年さいなまれていたキムが必要としていたのは、他の家族たちのストレートな罰だったのだろう。だからパニックから醒めた彼女は家族の元へとまっすぐに帰り、うそのように従順になって姉の結婚式の介添人をとどこおりなく務める。パーティーの場面では盛り上がる音楽とダンスのなかで一人でうつむくキムが可哀想だが、むしろ可愛くも見える。そして、不在の主人公であるもう一人の家族にたいして彼女がそっと語りかける、センチメンタルなシーンが続く。

この映画、そんな感じでひりひりするような家族の居心地の悪さを描くわけだが、こう書くほどには辛くない。パーティーそのものは家族の不穏な空気にたいして影響されることもなくハッピーなまま続く。パーティー本番でもキムはかなり痛いスピーチをかましたりしているのに。なぜか。それがこの映画のもう一つのテーマともいえる、多文化主義だ。
この家族、典型的アメリカ人家族では全然ない。北東部の裕福な一家のようだが、それ以上に多民族、多文化的な空気に満ちているのだ。新郎はアフリカ系のジャズミュージシャン、家族の古い友人もアフリカン、新郎の友人はチャイニーズ系の詩人。それ以外にもさまざまな人種が入り乱れ、結婚式そのものもアメリカではかなり異端と思われる人前式で、新婦のウエディングドレスはサリー風。そもそも父の後妻が旭天鵬に似ているのも彼女がネイティブ・アメリカンだからだ。パーティーのスピーチも自由人たちの思い思いの発言が入り乱れ、キムのスピーチもなんとなくその多様さのなかに吸収されてしまう。これが一定の階層の均質なひとびとだったらどうなるだろう。列席する全員に、無言の「これはOK,これはアウト」が共有され、奇矯な振る舞いがあればすぐに会場全体の空気が凍るだろう。しかしこの多文化パーティーでは柔軟に受け入れられる。そもそもキムを最も嫌っていた新婦の友人が、キム以上に痛いスピーチをかましてしまっているのだ。
そして音楽。トーキングヘッズのライブ映像から頭角をあらわした監督は音楽をもうひとつの主役として扱う。パーティーが始まる前から楽団はリハと称して演奏をはじめ、パーティーが終わった翌朝まで、ひっきりなしにあらゆる種類のバンドが演奏しつづける。アラビックの楽団、イングリッシュフォーク、ジャズ、アイランド、サンバ、間にDJタイムが入る。目の前で人が奏でる音楽のパワーが、痛々しい空気も飲み込んで流れていく。

もうひとつの、あるいは最大の特徴である、この映画の独特な撮り方については公式を見て欲しい。段取り臭のない群像劇の秘密が語られている。

ラストシーン、式の翌朝、キムは朝早くに迎えに来た車に乗り込む。父親は寝ているようで、姉だけが見送る。壮絶な言葉のやりとりもしたが、最後はにこやかにハグでお別れだ。しかし、寂しげなキムの車が去ったあと、レイチェルは重荷が降りたように晴れやかな顔でぴょんと軽くジャンプする。これは演出なのか、インプロビゼーションなのか…ほろ苦い映画のラストにふさわしい、いい演技だったと思う。ラストシーンでも楽団は音を出しつづけている。