ありがとう、トニ・エルドマン


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ストーリー:ドイツのとある街で老いた母と老犬と暮らす初老の音楽教師、ヴィンフリートは、しょうのないジョークや悪ふざけの癖がぬけない男。別れた妻との娘、イネスはそんな父とは対照的なしっかりもので、グローバルなコンサルタント企業で働いている。ある日、イネスが働くルーマニアブカレストに予告もなく父があらわれる。寂しくなったらしいのだ。当惑しながらも数日を一緒にすごすイネス。父を送り返してほっとしたイネスが女友達とレストランで女子会していると、妙なロン毛+出っ歯のみるからに奇妙なおじさんがあらわれる。「コンサルタントのトニ・エルドマン」と自己紹介するその男はどうみても父だ。あぜんとするイネスだが、トニ・エルドマンはだんだんと彼女の生活に、仕事に浸透しはじめる…...

ぼくにとっては、意外なくらい心に染みわたって好きになった1作。この話、「ドイツの寅さん」的な何かを感じるかもしれない。「このおじさん、痛い...」そんな展開が想像つく。でも、見ているうちに少し違うことに気がつくだろう。主人公も痛いのも、おじさんの方じゃなかったのだ。…….とはいえ、物語はおじさんの視点と日常からはじまる。おじさんは明らかに変わり者で、どこかズレてる。娘は海外で働く切れる感じの女性。頭ぼさぼさに無精髭、ゆるいファッションの父が仕事の世界にあらわれたら、彼女じゃなくても当惑する。見た目からしてお固いビジネス向きじゃないのだ。ところが娘はなぜか父を仕事がらみのレセプションや2次会に連れていき、ダメなおじさんは緊張感に満ちた彼女のグローバルビジネスの現場にはまり込んでいく。

ぼくはほとんど予備知識なく見にいって、途中で「あれ? 監督、女性?」と思った。「女性ならではの感性」とかなんとか言いたいんじゃない。本作は、はたらく女性のあるある描写や、ちょっとしたエピソードが、(知らないながらも)すごくリアルに見えるのだ。あと、後述するある描写でね。
主演ザンドラ・ヒュラーは、小柄ですごく「普通の人」っぽい体型ながら、ケイト・ブランシェットシュテフィ・グラフ系統の、クールで厳しめの顔。30代後半、グローバル企業でプロジェクトの責任を担っている設定だ。高級アパートに住んで、運転手が迎えにくる。ところがそのきびしい顔で次々とドジを踏んでいく。寝坊して大事なミーティングをすっぽかし涙目になる。後半では父のバイブスに巻き込まれはじめてどんどん自分を解放し、はた目には不思議系の人になっていく。でも真顔。なんだか実在の女性を見てるみたいなかわいさを感じはじめるのだ。

父はしょうもない冗談ばかりいい、なんだかずれた行動をしてしまうけれど、根っから子供じみただけの男じゃない。心情はまともで、じつはそれなりに分別もあるキャラだ。物語パターンでいうと、まともなようで忙しい日常に何かを見失ってる人びとをはっとさせる「聖なる愚か者」でもある。だから、娘も少しずつ解放されていくと、子供のころの自分、「パパの娘」に少し帰ることを自分に許せるようになっていく。
グローバル企業描写がどのくらいリアルなのかは知らない。でも必死で献身的な現地アシスタント(キュート!)や、思うところがある気な地元企業サイドや、アパートから見下ろすスラムめいた街や、本国から来た社員たちの微妙なにやつき...父娘のまわりの世界を忘れさせないようにところどころに描写が散りばめてある。チャウシェスク時代から20年(当時の描写がこの映画にあった)、たぶんまだ欧州では最低開発グループにいるルーマニアだ。
セクシャルなシーンの突き放した描き方もそうとうな特徴だろう。寺島しのぶ的とでもいうのか、中堅の演技派ながらザンドラさんはかなりの見せっぷりだ。ただし「女を男のファンタジーに合わせては見せないから」という強烈な意志をおどろくほどに感じる撮り方で、エロい気分になることはありえない。ここも撮り手が女性?と思ったところ。不思議な物悲しさとおかしみに落とし込んでいる。

ラストは解放感があり心温まる。でもそこになんとも不思議なアイテムが挟み込まれていて、ベタさから距離が生まれている。なんなんだろう、あの発想は。ぼくはあれを見て「あっ、WILDERMAN!」と思った。リンク先を見てもらうと似て非なるヤツがいろいろ出てくる。なんとも魅力的な写真シリーズだ(撮影したシャルル・フレジェは日本全国の祭りの装束も撮ってる)。公式の「著名人コメント」欄になぜか彼のコメントがある。アイディア協力かなにかしたのかも知れないね。