ムーンライト


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ストーリー:1980年代のマイアミ、リバティ・シティ。いじめられっ子のシャロンは、キューバ移民のフアン(マハーシャラ・アリ)と出会う。シャロンは夕飯をごちそうになっても、フアンの彼女テレサジャネール・モネイ)にやさしくされても口をきかない。それでもフアンはなにかと面倒をみるようになる。家に帰っても、薬物中毒で薬代のために家で売春をしている母(ナオミ・ハリス)に相手にされない、まわりに〈オカマ〉といわれていたひよわなシャロンにフアンは泳ぎを教え、生き方を語る。でもかれは麻薬ディーラーでもあったのだ。
高校に入っても立場は同じ。まともに接してくれるのは幼馴染のケヴィンだけだ。そして続く暴力。ずっとうつむいていたシャロンはついに心を決める。15年後。アトランタの街にフアンそっくりのディーラーがいた。見違えるようにマッチョになったシャロンだ。そんな彼の携帯にケヴィンから着信が...

リバティ・シティ。1930年代に形成され、はじめは中流の黒人たちの街だったが、1960年代から収入のない貧困層流入・定住するようになって、1980年代には貧民エリアになっていた。ビーチに近くて、海抜3mしかない。高潮でもあったら水が来そうだ。5km2くらいのところに約20,000人が住んでいる。『ストレイト・アウタ・コンプトン』のコンプトンも黒人やヒスパニックが多い地区だけど、こっちは25km2くらいに100,000人弱が住んでいる。くらべるとリバティ・シティはだいぶこじんまりしているね。
物語はほとんどこの小さな町で起こる。無理もない、2幕までは小学生と高校生。なんとか言ってもその年代の世界って地元だ。大人になったシャロンは遠く離れたアトランタの街に移るけれど、幼馴染のケヴィンはこの町のレストランで働きつづけている。こういう町では、外に出て行くことはなにかを見つけて這い上がることだとよく言う。一生町を出られない人たちもいるだろう。


ドラマの登場人物は全員が黒人だ。白人は背景みたいにちらっと映るくらいで、まともなセリフもない。じゃあぼくたちから遠い話に感じるかというと、実はそうでもない。まぁ、フアンや大人のシャロンがふつうの日本人だとありえないようなでかい体をゆすって歩けば「こりゃ違うわ」と感じる時もあるけれど、少年の居場所のなさや、学校の辛さや、心をひらけない男の孤独や…..普遍的に受けとめられることだ。
これはむしろ全員が黒人だからでもある。最近のハリウッドエンターテイメントも基本そうだけど、バランスをとるためのマルチエスニックな映画って、主要キャラのなかの黒人は「黒人枠」の、アジアンは「アジア人枠」の、むしろ型にはまって見えること、ないですか? この映画だと、それぞれの微妙な個性が自然に見える。日本人が日本人だけのドラマで自然に見てるのと同じこと。
人間関係はとてもシンプルだ。2人の女性は主人公にとっての母。育児放棄してるジャンキーの実の母と、何かあると家にも泊めてくれる美人でやさしいおばさん。男の1人は主人公にとっての父。ドラックディーラーだけど、主人公がたぶんはじめて出会った、自分を受入れてくれる大人の男だ。あとは同級生たち。1人の幼馴染と、残りはかれを小突き回すいじめの群れだ。クラスには女子もいるけれど、彼の世界には男子しかいない。
それだけ。小さな子供の彼も、高校生の彼も、まわりの人間関係は同じ。よけいな関係を描かなかったというよりは、かれには世界の広がりがないのだ。大人になったかれはアトランタに移り、子分も商売仲間もできる。でも心の中の世界はまったく広がっていなかった。ラストの台詞がなんとも哀しくそれを象徴する。

小学生のシャロンがフアンに「faggotってなに?ぼくはfaggotなの?」と訊くシーンがある。フアンは「ゲイを嫌な気分にさせる言葉だ、おまえがどうかは今はわからなくていい」と答える。この映画はBL的に紹介されることがある。たしかに抑制されてはいても『ブロークバック・マウンテン』を思い出させるところはあるしね。シャロンとケヴィンのキャラクターなんて、ちょっとほうふつとさせるところがある。そのケヴィンとの関係だって、幼馴染みの男と女の関係だと描けない哀しさがあるのもたしかだ。マッチョな文化の中で、マイノリティのなかのマイノリティになるシャロンの孤独が物語の中心だ。でも、なんだろうな、さっきも書いたけれど、コミュニティのための作品じゃない。外に開いた作品だ。『キャロル』もそうだったみたいにね。
ちなみに、セクシャルなシーンを絵的に見せ場にする感じは(『キャロル』『アデル、ブルーは熱い色』『ブロークバック』にあった)ない。そういうトーンじゃないんだと思う。あと、そこを濃くしすぎて間口を狭めたくないという作り手の考えもあったと思う。
フアンおじさん(ドラッグ云々はおいといてもアメリカの清原的たたずまいだ)が子供のシャロンをビーチにつれていって泳ぎを教えてくれる。ヴァージニア・キーという島だ。彼らの町からだと車で20分くらい。 学校帰りに連れて行ける距離だね。高校生になったシャロンとケヴィンがいくビーチはどこだろう。家から歩いていける本土のどこかだったのかもしれない。それから、大人になったケヴィンが働いて、2人が再会するレストランがここ。 リトル・シティからちょっと出たあたりみたいだ。だからか、お客さんたちは白人だった。