LALALAND ララランド


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ストーリー:セブ(ライアン・ゴズリング)は売れないジャズピアニスト。黄金期の自由でアバンギャルドなジャズにあこがれる彼は、でも今はしがないバーのピアノマン。女優をめざしてハリウッドスタジオのカフェで働くミア(エマ・ストーン)はオーディションで連敗中だ。2人の出会いはぱっとしなかった。それでもだんだんと気持ちが近づいていく。やがて2人はそれぞれにチャンスを掴む。
あまり事情がわからないなかでいうと、いまこういう豪華なミュージカル&ラブストーリーを作ること自体に価値があるんだろうね。日本で規模もおおきく時代考証もきちっとした時代劇を撮ることに、作品のでき以外の意味があるのと似て(ぼくは『十三人の刺客』と『超高速参勤交代』をくらべて思い浮かべている)。この作品が、ものすごく評価されたからって、ミュージカルの時代が再来するわけじゃないだろう。そうそう作られる映画じゃない。だからこそ監督は過去の名作の記憶をそこらじゅうにちりばめる。記念碑としてね。
でも、パスティーシュ的再現じゃない。パスティーシュ的ってどういう意味でいってるかというと、画面のテイストとか撮り方とか音楽とかセリフ回しとかプロットとか、とにかくもろもろに「あの感じ」を匂わせて、よく出来たフェイク感を楽しむタイプのことだ。極北はフランス人、フランソワーズ・オゾンの『8人の女たち』、あとはたとえばノワール風味の『ブラック・ダリア』とか往年のおしゃれスパイ映画風『コードネームUNCLE』とかね。もちろん、本作は、フィルム映えする原色の衣装とか、名所のテレのない撮り方とか、あのシーンでのセット使いとか、そんな詳しくないぼくにも「ふまえてるな〜」と思わせる使い方だ。たとえて言うとクラシックジャズを衣装も楽器もあの時代の感じで再演するんじゃなく、サンプリングしてコラージュ的に配置したものにも見える。

ただ、まああれだよね、ここ突っ込む人は多いけれど、セブの求める「ジャズ」ってなんだ?問題はやっぱりぼくにもひっかかった。集中トレーニングで完璧に弾きこなせるようになったライアンさんはさすがだと思うけれど、メロウすぎるよね、弾いてる曲は…… 2人が聴きにいく「本物のジャズ」は時代を考えれば完全に伝統芸能化したものだし(たしか客も高齢が多かった)、セブは結局最新のこんなキーボードを弾きながら夢に近づいていくし、つまるところ監督はセブにとってのジャズも無条件にすばらしき何か的に描いてるわけじゃないということだろう。そもそも現代に近い時代にセブがあこがれているそれをまじめに取り扱うと、失われた文化再興みたいなテーマがでてきて話が面倒くさくなる。そんなところは目指しちゃいないだろう。
逆に、ミアが「自分が本当にやりたいこと」としてキャリアを賭けて演じるのがこれもクラシックな舞台劇だというのが面白い。セットも、たぶん演出もそうとう古典的なもののはずだ。このあたりもよくわからないながらに『バードマン』を思い出した。日本で思うより、いや日本の演劇事情をぼくがよく知らないだけかもしれないけれど、「本格派の俳優」にとって文学的な舞台というのは高い位置に存在しているのかもしれない。位置づけとしていえばセブのジャズより、ずっと明確に今でも価値あるものとして存在している。

ミュージカルという形式が、そもそも語られている物語のリアリティを少しわきに置いておくタイプだ。そりゃあね、歌いだし、踊りだすわけだから。この物語はさらにキッチュな象徴的シーンを入れたり、ラストの展開を入れたりして、物語である「それでも夢をおう2人」に観客が同一化しすぎ、没入しきらないようにしている。たぶんわざと時代設定もわからなくしている。そのくせエモーショナルな語り口の型はほうぼうに配置して、インスタントに没入させようともしている。そんなこんなで満足して映画館を出た。