黒い十人の女


<予告編>
市川崑、1961年の作品。ビスタサイズの画面を、タイトルどおりにとっぷりと黒い暗部で塗込めたみたいな映画だ。でも雰囲気は意外に軽妙で、生活感ゼロのスタイリッシュムービーでもノワール的なダークな物語でもない。悪人になりきれないかわいい悪女たちのピカレスクロマン風味という感じ。
ストーリー:風松吉(船越英二)はTV局のプロデューサー。超多忙、そのくせ妻以外9人の愛人らしき女たちがいる。バーを経営する妻の双葉(山本富士子)も他の愛人たちも彼が同時に何人もつきあうタイプなのが分かっているからいつも不満があるし愛憎なかばする思いをもっている。「いっそ殺しちゃおうか」という双葉の冗談が耳に入った松吉は狂言殺人で愛人関係を清算しようと持ちかける…
ふわりふわりと浮遊するような、女たちの言葉がまったく響かない色男のサラリーマン。その設定がテレビ局員というのがちょっと意外だった。80年代ならわかる。「ギョーカイ人」が格好よさのシンボルだ、って当の業界人が何の疑問ももたなかった時代ならね。でも1961年って民放のテレビ局発足から10年も経ってないのだ。NHKの実験放送が1948年、民放は1953年放送開始。このすばらしきHPに初期の番組のリストが出てる。まだ輸入ものの番組も多いし、今でも名前をきくような伝説のテレビ番組が始まるのは映画から1〜2年してから(ちなみに映画には本人役でクレージーキャッツが出てくる)。草創期もいいとこだ。それなのにこういうキャラクターになるくらい、すでにテレビ人のイメージって確立してたんだろうか? 笑えるのは局内の描写で社員が「◯◯ちゃ〜ん」とか言ってるのだ。この軽薄なノリがテレビ局のカリカチュアとして通用してるっていうのが…。ちなみに終戦からたかだか15年のこの映画では、物語にも画面にも戦争の影はほとんどない。
愛人の10人の女のそろえ方が意味ありげでいい。こういうのもなんなんだけど美人はそんなにいないのだ。山本富士子岸恵子はさすがの美貌で、テレビタレント役の中村玉緒が「昔こんな感じだったんだー」というキュートさを見せてくるのと、岸田今日子がどことなくUAめいたぬぼっとした存在感でいるくらいで、あとはちょっと時代を感じるモンゴリアンフェイスの女性たちばかりだ。重要な役の宮城まり子も苦労人感が濃い。この顔、知人に妙に似ていて、その彼女がなんだかちらついて集中できず困った。まあ松吉はモテ男の王道をいってるんだと。面食いのえり好みはしない「平等にやさしい人」だ。

しかし岸恵子はうつくしい。後半では脚線美までじっくり見せたりして、周りの女性から頭ひとつぶん背が高く、有無をいわせない「別格感」がただよっている。でもそんな彼女でもデータによると161cmなのだ。山本富士子なんてどうどうとしてるから大きく見えるけれど、やっぱり50年前になると女優さんたちも小さかったんだね。この時代の岸恵子はすでにフランス人の映画監督と結婚してパリ在住になっている。当時で言えば中山美穂 in Paris とは比べ物にならないプレミアム感だろう。その彼女にはぴったりの役だ。
全体に女優さんたちの演技はそれこそちょっと芝居がかっていていい。なんていうんだろう、様式的顔演技とでもいうの?「んまっ!」とか「あらそうぉ?」とかセリフをつけたくなるような分かりやすい表情の作り方がそこここにあって、けっこう可愛いのだ。クールビューティー系の岸恵子もそんな感じの芝居。それにくらべると船越英二はどうなんだろう…浮遊するような、岸恵子に「影を失った」といわれるような存在具合は、整いきった容貌もあってみごとに再現している。でも後半の苦悩して悲痛に泣くみたいな芝居は、さすがにちょっと…と思うが、そういう記号的演技で通す演出だったのかなあ。
脚本は監督の妻である和田夏十。映画のなかで松吉以外に存在感がある男はほとんどいなくて、いっぽう女たちは全員きちんとした職業を持っていて、男に養ってもらう必要なんてなく、ただ気になる男をキープしておきたいという立ち位置だ。あわれっぽい女は一人もいない(バランス上ややそういう役目を持たさはれているキャラもいるけど)。その辺が映画の色でもあるし、全体にわりあいからっとした楽天性みたいのがただよっている。松吉は女たちにさらわれても職場の身分にだけはやたら執着する男として嗤われている。それとは逆に市子は十分すぎる金をすでにためていて、気に入った男を愛玩するために女優のキャリアは捨ててしまうのだ。
画面はライティングがおしゃれで、どのシーンも陰影がくっきりしている。夜の街のシーンなんかは当然だけど、ちょっとしたシーンでも役者に横から光をあてて表情豊かな影を後ろの壁に落とし、画面にうごきを出すみたいな絵だ。