メメント


<参考(imdb)>
2000年公開、クリストファー・ノーラン監督の長編2作目。妻を強盗に殺された保険調査員レナード(ガイ・ピアース)の物語。レナードはその場で強盗の一人を殺すけれど、隠れていたもう一人に頭を殴られ、記憶に障害を負ってしまう。レナードは仕事をやめ、警察も逮捕してくれなかったもう一人に復讐するために自力で追い続ける。レナードは田舎町のモーテルに泊まって作戦を練る。謎の男テディ(ジョー・パントリアーノ)やナタリー(キャリーアンヌ・モス)たちが彼に情報を提供する。どうやら犯人は絞られてきているようだ・・・と、いいたいところだけど。実はファーストシーンでレナードはお前が犯人だ!と一人の男に銃弾を撃ち込んでいるのだ。

この映画、物語自体はなぞときゲームで、キャラクターは感情移入しづらいし、最大の謎をひめた男はびっくりするくらいチープなたたづまい、主人公を襲う悪役もなんだかぱっとせず、つまりヒューマンドラマとしての魅力はどうなんだ、という感じがある。主人公は記憶の障害を持ちながら異常な執念で犯人を追い続ける男で、記憶障害をおぎなうために全身にタトゥーのメモを入れているくらいなんだけど、そのパラノイドなすごみが今ひとつかもしだされていない。気の毒な設定を別にしてもここでのガイ・ピアースはどこかバカっぽく見える。

でも十分に面白い。スリリングでもある。その理由はものすごくテクニカルな脚本にある。まずその構成が時間を逆行する話法になっている。時間をさかのぼって語り直す映画というのは珍しくないし、タランティーノ以降『現金に体を張れ!』タイプの複数視点で何度も時間を巻き戻すタイプの映画もいくらでもある(これとか)。最初に結論を見せておいて、謎解きみたいな形で物語の発端にさかのぼる『500日のサマー』タイプもある。

この映画がそれらと違うのは、かなりまっすぐ時間を逆行していくところだ。こういうタイプの映画はそれ以前にもあった。見ていないけれど、ジェーン・カンピオンの『ルイーズとケリー』(1986)、イ・チャンドンの『ペパーミントキャンディー』(1999)というのがある。そしてこの後にでたギャスパー・ノエの『アレックス』。ただ『メメント』はそれらとも違う。ただまっすぐ逆行しているわけじゃないのだ。この映画の時制は下のイラストみたいになっている(シーンの数は適当ですよ)。

時間はなんというか、折り曲げられて、重ねられている。直近の時間は逆行するし、少し離れた過去の時間は順行する。折り曲げられたちょうつがいの部分に謎解きがくるようになっている。星印のところね。逆行しているシーンはカラー、順行しているシーンはモノクロだ。そこにさらに回想シーンめいたのが挟み込まれるから時制はもっと分かりにくい。この構成は、主人公レナードの記憶に障害があるという設定、つまり「いま起こっていることを次の瞬間忘れてしまう」というところを観客に共有させるためのものだ。

映画はほぼ主人公の主観視点で、彼がいないところで起きているシーンは基本的にない。それでも時間通りに物語を進めていくと主人公は出来事を忘れても観客は覚えてしまうから「知らぬは主人公ばかり」になる。時間をさかのぼる形にすることで、過去は観客にとっても未知になり、主人公と同じ視線にたつことができるのだ。主人公の混乱と「知りたい!」という欲求は観客にシンクロする。同時にモノクロシーンを複雑に入り組ませているせいで観客も時間の経過がよくわからない。これも主人公と同じだ。

さらに人間関係もそうだ。人間関係だってもちろん記憶に依存する。この物語では他人もあくまで主人公の主観で見た他人だから、記憶が断絶していれば「同じ人」ではいられない。だから誠実で彼に同情的だったような人間がシーンが変わると人が変わったように冷淡で狡猾な人間としてふるまったりする。主人公に接する人間はその記憶障害を理解しているので(あう人ごとに彼はそれをアピールする)彼が忘れるのを待ってがらっと態度を変える相手もいる。実際にそんなことができるのかとも思うけれど(ふつうは一旦相手に対する態度が定まるとがらっと変えるのはけっこう難しいと思う)、物語上はまったく通用する。

そんなふうに自分の記憶が頼りにならないレナードにとっては世界はまったく一貫性を失った存在だ。だから彼はポイントになる人の顔や景色をポラロイドに撮りメモする。そしてモーテルの壁にはった町のマップだかダイヤグラムだかのうえに貼付けたりする。これを見ていてああ、そうかと思う。つまりライフログの話でもあるのだ。ジオタグだってついている。ライフログの集積が彼にとっての世界の一貫性を、そして彼自身の一貫性をまもる・・・そう彼は信じている。

でもFacebookのタイムラインをかざるこぎれいなスナップと楽しげなコメントが「いいかんじの日常」を演出するために厳密にセレクトされているように、レナードのログだって彼が「こう記憶したい」と思っているようにしか記録されないのだ。途中でレナードは「記憶は記録とちがって信頼できないんだ」と言っている。たしかに映画上、記録は変更できないものとしてあやふやな記憶と対置される。でも記録は操作できる。それは永遠に消えない彼の体の上のタトゥーだって同じことなのだ。

レナードは記憶が続かない上に元保険会社のサラリーマンの割にはなぜか戦闘力がいやに高く、それを利用してさまざまな人間が都合のいい相手をときには復讐の相手だと思い込ませて倒させる。信頼できる相手はどこにもいない。そしてラストでは最後のよりどころのようなものも破られる。いつでも消去できる記憶はいつでも捏造できる記憶でもある。レナードは「記憶は自分の確認のためなんだ」という。自己認識もまた記憶の集積でできている。だから彼の記憶が記録=ライフログに依存しているなら、その操作によって自分自身もまた自分がのぞむようにシェイプできるし、彼はじつはまったくイノセントな存在じゃなくそのことに自覚的なのだ。