ミゾグチ、「この世界」もの3本

溝口監督の花街・遊郭もの3本。巨匠はとにかくこの世界を描いたものが多くて、ほかにも祇園を舞台にしたもの、いわゆるパンパンを描いたもの...いくつもある(未見だけど)。すくなくともこの3本、とくに『祇園囃子』『赤線地帯』は、とにかくシビアな現代劇、社会システムとしてのこの世界をかっちり描いてるのが印象的だ。遊郭ものっていうと、『さくらん』は極端だけど、やっぱりエキゾティックな対象としてきらびやかに描くパターンか、色と欲のうずまく人間模様系、「虚実いりまじった男と女の駆け引き」とか「女同士のしのぎあい」とかの描き方が多い。『幕末太陽傳』は客と芸者と男衆と志士と、グランドホテル式の群像劇だった。でも、溝口のこの2本、なんていうか、たとえば50年前、炭鉱を描いた映画をいま見るみたいなところがある。今のぼくたちから見ればもはや異文化のできごととしかいいようがないけど、たしかに社会の一部だったし、そのなかであがいていた日本人がおおぜいいたということ。そういう意味ではね。じっさいどっちも「女がこのシステムのなかで生きるってタフなことだよ」というテーマでつらぬかれている。その対として、これもさんざんいわれてきてることだけど、とにかく物語を引っぱる力強い魅力的な男がこの世界にはまったく存在しない。
祇園=花街、島原=お茶屋、吉原=遊郭。どこが同じでどこが違うのかわかりにくい。島原の代表的な揚屋だった「角屋」のサイトを見るとすこし参考になる。ちなみにこのサイト「こっちは文化サロンなんや、吉原みたいなセックス産業と一緒にせんといて」という強烈な意識がですぎるくらいでていて興味深い。特別公開の時に見に行ったけど、とにかく凝りに凝ったインテリアで各部屋ごとに雰囲気を変えていておもしろかった。キッチュ方向にいきそうな絢爛ぶりだ。

祇園囃子


<冒頭>
一番おもての世界、というか普通にメジャーな祇園。『祇園囃子』は3本の中でははなやかだし、新人の舞妓(若尾文子)も姐さん芸者(木暮実千代)もきれいに撮られている。新人舞妓はちゃんと芸事や所作のけいこをして、お披露目ではゴージャスな衣装を着て、男衆をしたがえてねりあるく。外国人がカメラをかまえそうな晴れ舞台だ。でも…それは結局、舞妓という商品を送り出すための投資で、出資者は別にいる。彼が受けとる配当はセックスの権利なのだ。先輩芸者も高級な接待の提供品として使われる。最初はお座敷で愛想をふりまくだけだけど、気に入られればそれですむわけもない。二人はその不文律的なおきてに抵抗する。そしておなじ女性であるお茶屋のおかみから完ぺきに干されてしまう。小泉今日子なみに顔が小さい浪速千栄子がこの容赦ないおばさんを演じる(『近松物語』ではいいおばあさんだったのに。でもこの小顔は冷徹なおばさんのほうがあうような気が…)。

風景は京都らしい町家の並ぶ小路。幾何学的でありつつ木の質感がしっとりした小路の景色の格好よさを、いろんなアングルからシャープにひきだしてくる。芸妓が暮らす家も昔ながらの町家。玄関を出て、建物の間のくらがりを抜けると路地にでる。このくらがりがちょっとした結界めいていて、細かいドラマの舞台になっている。そのほかお座敷や、稽古をする部屋と中庭の景色や、映像的には楽しい。
でも考えると屋外ロケはほとんど小路の風景しか使っていないし、物語は外の社会から少し遊離した祇園周辺のなかで閉じている。二人がひいき客に東京に連れていかれるエピソードがあるけれど、舞台は列車や宿の客室の景色くらいなもの。ご褒美旅行かと思ったら客の接待用に行くだけで、彼女たちが自由に外の世界を楽しめるわけじゃないのだ。だから銀座ロケとかで娘がはしゃぐシーンみたいのは一切ない。彼女たちは社会的にも外の世界を謳歌できる立場じゃないという感じが、映像的なある種の単調さにあらわれている。
若いころの若尾文子はちょっと下膨れながらかわいい。キャラクターとしては当時のギャル系という感じで「アプレ」と呼ばれる。アプレゲールといって戦後派のことで「現代っ子」的意味なんだろう。流行っていたのか?『噂の女』でもナンパな男がそう呼ばれていた。姐さん役の木暮実千代はもともとセクシー女優だけどここでは抑えめ。人情派の年増芸者だ。唯一のストレートなお色気シーンでは、覚悟をきめて足袋を脱ぐ、というあたりで表現。『近松物語』にもあった「着物のエロスは裾周り」の王道をゆく描写にうならざるをえない。

赤線地帯


<んん?これ..>
これはまたなかなかに・・巨匠のリアリズムといわれるこの作品だけど、娼婦たちも、遊郭も、そのまわりの路地もきれい目には撮らない。ついでにいうと、娼婦の平均年齢も高い。成人した息子がいたり、病身の旦那と子どもをやしなっていたりと、かなり身につまされる設定になっているのだ。ここにはファンタジックな香りは一切ない。
とはいえはなやかさがゼロではあまりにも殺伐としてるので美女はいる。アホな客を何人もだまして、客のひとりの後釜で貸し布団屋の女主人になるやすみ(若尾文子)、神戸のお金持ちの不良娘がいつの間にかプロになり東京にやってきた、という設定のちょっとバタくさい姉御肌のミッキー(京マチ子)の二人だ。あと、木暮実千代もでているけれど、こちらは病身の夫を養う苦労人キャラで、眼鏡で色気を封印している。売春防止法施行前夜の業界の不安定感が全編のトーンで、恩着せがましく置屋の社会的意義をとく店主とか、息子が母親の仕事をとか、結婚できたと思ったら所詮はとか、病身の夫は妻にとか、なぜ父親がとか、とにかく全編悲劇的なのだ。唯一の成功者は、遊郭ものらしく男の気を引きながらじょうずに搾取できたやすみくらいだ。その彼女にしても守銭奴になるつらい理由がちゃんとある。ラストはいやおうなしにこの世界に入ることになった奥手そうな娘が化粧させされて、おずおずとプロへの一歩をふみだす、なんともいえないクロースアップだ。

店のデザインがいかにもだ。いまでもこの手の商売に使っていた建物がスナックとかふつうの家になって残っていることがときどきある。戦前〜戦後すぐの安普請だから後ろへ回ればただの木造建築だけど、ファサードは独特で、見慣れてくると何となくわかる。スナックでよくある、ななめに引っ込んだドアもそうだし、何だか不思議なモダン感がさりげなく残ってるのだ。タイル使いとか飾り柱や窓、不思議な曲線。ラブホもそうだけど、性産業の建物が必要以上にキッチュ感を出してくるのはなんだろうね。この映画の店もそんなキッチュさが何ともいえない。表現主義的な、なんていうかちょっと性器をイメージしたんじゃないかと勘ぐりたくなるような異様な曲線のエントランスまわりだったりするのだ。
この映画は『祇園囃子』とちがって「外部」がよく写る。田舎の実家だったり、荒野に立つ工場だったり。ラジオのニュースがひっきりなしにかかって防止法のなりゆきがいやでも観客の注意を引く。そんな感じで社会の1ピースである赤線という視線が色濃い話だ。ちなみにアバンギャルドすぎる劇判は黛敏郎謹製。『戒厳令』の一柳慧とか、当時の映画で現代音楽を使う例はあるけど、この場合ドラマのエモーションともすでに無関係なぷよ〜んというクラヴィオリンやソウ(楽器に使うのこぎりね)のサウンドが不思議すぎる。

噂の女


<予告編>
舞台は島原。主人公は芸妓や娼婦じゃない。お茶屋の女主人とその娘だ。毎晩のお座敷の予約を受けて、芸妓を手配し、料理や酒の差配をする。話は3作のなかで一番軽い。母(田中絹代)のもとに東京で失恋して自殺未遂したという娘(久我美子)が帰ってくる。どうやら実家の商売が原因で婚約が白紙になってしまったようなのだ。きらいな実家でいごこちわるくすごす娘。母には年下の医師である愛人(大谷友右衛門)がいる。愛人を援助して独立させて夫婦になりたい母だけど、いつの間にか愛人は娘と仲良くなっている。恋にやぶれた母はそれでも店を抵当に入れたお金を愛人に渡す。男の適当さに怒り心頭に発した娘はバルタン星人のごとく大はさみを持って立ち上がり、男から金を取り戻して別れをつげる。そして失恋で寝込んだ母のかわりに、あれだけ毛嫌いしていた店を若女将よろしくてきぱきとしきりはじめるのであった……といつのまにかただあらすじをなぞりだしていた。
ここではいわば外注先というか派遣労働者として花魁や芸者がやってくる。時代設定は戦後のはずだけど、花魁ならではの高下駄に横兵庫 に結った芸者もかっぽしていて、風俗のふしぎさに思いをはせざるをえない。(ちなみに「花魁 髪型」とかで画像検索するとやけにDQNテイストの画面になる謎!) ラスト近くで、3作共通のプロットだけど、若い娘が芸者の道に入ろうと決意を固めるシーンがある。それをみて風格ある花魁が「あとからあとからこの世界も人材がきてしまうんだねぇ」的になげくのだ。つまり自分たちみたいにこのろくでもない世界はいっていく境遇の娘たちはいつまでたってもいるんだねえという慨嘆だ。
3作共通(というか作風なのだろう)でまともな男はいない。お座敷にやってくる上機嫌な酔客のうざさは戯画的なまでに強調されているし、そもそも愛人役の大谷友右衛門は当時でいえば時代劇スター、しかもその後は上方歌舞伎の代表的女形になったような役者なのに、なんともいえない微妙な演技と存在感にしか見えないのはわたしの観賞眼のせいなんやろか。ちなみにこの映画のお茶屋は、残念だけどあまり魅力的な魔空間に見えない。恋愛ドラマの舞台でしかないというかね。そんな風に見えた。