クレイジーリッチ アジアンズ



<公式>
シンガポールはたしかに勢い感がある。街中はハイパーモダンで巨大な投資の香りがむんむんするし、その一方でコロニアル様式の街はぎゅっと残っているし、いろんな人種がいつつ都心部を歩いている人々が全般に若いし、街路樹は巨大なまでに枝葉を拡げている。そして女の子たちは全員ショートパンツだ。この映画、上海が舞台でもあり得ただろう(次作はそんな企画だっけ?)。でも東京はむずかしいよね、たぶん。っていうか、こういう感じにならなくて、オールドマネーの持ち主はやたらと渋く描かれるだろう。和風庭園のある屋敷にすみ、しずかーな室内で着物に着替えて。
この映画は、たぶんそんな感じのエキゾチズムを本国の観客にもあまり感じさせないように作っている。エキゾチズムは簡単にオリエンタリズムにころがり、別世界で別の価値観で生きているらしい人々としてしか受け止められない。この映画はあくまでアメリカ的価値観からみてもリッチで素敵なライフスタイルをアジア人たちが謳歌していなければだめなのだ。だからシンガポールのアジアっぽい部分はアメリカ育ちのレイチェルをシンガポール生まれの御曹司ニックがはじめて案内する時に「こんなとこもシンガポールらしいんだぜ」という感じで見せるくらいだ(あと、後半の大事なシーンでもう1シーンある)。富豪たちの屋敷も、彼らの休日も、結婚式も、まあすくなくとも我々の目から見れば「欧米風」だ。
もちろん、シンガポールにある種感じるヴァニティーさ、洗練された街の運営のどこかに、なにかが慎重に隠されてるんじゃないか的な感じとか、その手のことは映画には出てこない。そういう映画じゃないし。
■画像は予告編から引用

デッドプール2



<公式>
ジョシュ・ブローリンを初めて見たのはたぶん『ノーカントリー』だと思う。『W』のブッシュ役や『ミルク』『トゥルーグリット』とかで、渋めの演技派イメージを勝手にもってたんだけど、『インヒアレントヴァイス』の角刈り刑事を見て「あれ、この人こんなごつい系だったっけ?」と思ったのもつかのま、今じゃマーベル系の剛力悪役や『ボーダーライン』の外道捜査員とか、全般にアクション俳優イメージに(自分の中で)なっている。本作ではターミネーターオマージュの、未来から来た、笑わない、目の光るスーパー始末屋ケーブルだ。もちろんすごいアクションをこなしている(ことになっている)。
マーベル系とかX−MENとか、ごくごくたまにしか見ないからこの世界のお約束的なものがほとんど分かっていないんだけど、まあこの俗悪さとダーティさはきらいじゃない。X−フォース結成と・・・のくだりはアメリカ俗悪映画の伝統をみごとに受け継いでいる感じで、本作のなかでも一番のお気に入りだ。その分、愛をめぐるあれこれとか子供の閉じたハートを明けるあれこれとか友情とかいい話系のところは画面の小ささのせいか、残念ながら刺さってこなかったのだった。
ただあれだね、配役はいいね。ザジー・ビーツ(ドミノ)は格好いいし、ネガソニック&ユキオも、もちろんケーブルも。
■画像は予告編から引用

Sunny 永遠の仲間たち



<予告編>
ストーリー:40代の主婦、イム・ナミは病院でぐうぜん高校の同級生と再会する。彼女、ハ・チュナは事業を成功させていたが末期がんに侵されていた。女子校時代の仲間、「サニー」のメンバーと最後に再会したいというチュナの頼みに、ナミは仲間たちの今の探索を始める。1987年、そんな彼女たちの青春は….

日本公開が2012年。「いいよ〜」という声は聴いていたけれど、ことし初めて見た。大根監督のリメイク版は未見。感じとしては『横道世之介』を思い出す。そうか、振り返っている時期も同じ1987年だ。日本の1987年はバブル後期、この時の東京の空気ならぼくもおなじみだ。ソウルの1987年はどんなだったんだろう。上にも書いたけれど、全斗煥政権の末期で、民主化をもとめる行動がまた活発になっていた時期だったようだ。1988年のソウルオリンピックの前年で、いまの東京よりはずっと熱気があっただろう。それから政策でスポーツやポップカルチャーを振興したり規制緩和したりで、少年少女の思い出の曲も、ぼくたちと共通のものになってくる。

お話は女子数名のチームものだから、それぞれにわりとはっきりしたキャラクターをあてて、分担が分かりやすいようにしている。ヒロイックなリーダー(チュナ)、意外と骨のある新人(ナミ)、謎めいた美女、太った豪快さん、見た目は地味だがやたら罵倒スキルが高い子、勉強のできるメガネっ娘、きれいどころを目指す子。よくわからないけれど、チームはちょっとヤンキーめいた存在らしく、他校のグループと裏道でしょっちゅう対決する。
基本は泣かせコメディの演出だ。見たのがわりと前なので、ちょっと印象がぼやけてしまったけれど、少女たちの学園生活のなかに街中での機動隊と市民の衝突が急に入ってくる、ざくっと何かが切り込んでくる味わいとが陰影になっているのは確かだった。『横道世之介』の1987年が、徹底して平坦でなにも起こらず、その平坦さがむしろ失われてみると宝石のように貴重だったんだ、という感傷とはちがって、彼女たちの1987年はポップさと、時代のきびしさと、高校生活のワイルドさが入り交じった「濃い」ものだった。

jiz-cranephile.hatenablog.com

タクシー運転手 約束は国境を越えて



<公式>
ストーリー: 1980年春、ソウル。妻をなくして娘を1人で育てる個人タクシー運転手、キム(ソン・ガンホ)は10万ウォンで光州往復の客をゲットする。ドイツ人ジャーナリスト、ピーター(トーマス・クレッチマン)だった。光州市に近づくと様子がおかしい。軍隊が検問を敷いている。市内では大規模なデモが行われているようだった。中心部に入ると様子が一変する。催涙弾の煙のなかで軍隊が市民を力づくで制圧している。夜になると火の手があがる。自分たちも軍隊に追われたかれらは、ただの抗議活動と制圧じゃないことを知る。次の日、市の中心部では軍隊が水平射撃で市民たちを次々に撃ち殺していた。光州のひとたちはピーターに「どうか世界中にこのことを伝えて」と訴える…..

本作、たいていのひとはそれなりに予備知識を持って見るだろう。光州事件とそれを取材したドイツ人ジャーナリスト、かれと危険な街で行動を共にしたタクシー運転手。韓国現代史でも最大級の流血事件だ。どんな深刻な話なんだろう。でもそんな観客はまずは軽くすかされる。序盤はちょっとふるめかしいコメディ調なのだ。日本でいえば山田洋次的というか、わりと様式的な芝居に、金欠で金にうるさく、ずうずうしいというわかりやすいキャラクターの主人公。そこに下町人情風味がかさなる。
光州市に入ると街中から日常の風景がすがたを消す。それでも学生や地元の同業者に会って、車を修理してもらったり、家によばれて夕飯をごちそうになったり、このあたりも人情もの映画のどことなくあか抜けない情景だ。その夜に爆発音がひびく。街にでたかれらは、はじめてそこが戦場になっていることを知るのだ。そこから本作はがらっと雰囲気が変わり、戦争映画になる。


描写はシャープになり、音楽は重くなり、負傷者の救護にいっては狙撃される市民はスーパースローで急に今風に見せられる。軍人たちの人となりは必要以上に描かれない。冷酷に、容赦なく、自分たちに襲いかかってくる力だ。市民たちは徹底して、格好いい、強そうな人物はいない。主人公キムも人のよさげな中年男、学生も貧相だし、地元の運転手たちも小柄なおじさんたちだ。
彼らが精一杯の抵抗を見せる。それをささえるのがちいさな黄緑色のタクシーだ。当時のタクシーはヒュンダイ・ポニーキア・ブリサ。主人公が乗るのがブリサでマツダ・ファミリアノックダウン生産車だ。いまの目からみると、小さく、華奢で、どう見ても高性能には見えないかわいい車たちだ。それが軍に、ある意味立ち向かうのだ。
お話はすごく単純な、いわば主人公の成長の物語。首都でぼんやりと働いていたかれが、光州への過酷な旅を経て、意識が変わる。金のためだった行動が、真実を知って、正義のための行動に変わる。正義はもちろん民主化を求める市民たちだ。強大な敵に対峙する市民たちのなかには余計な葛藤はない。そこにあるのは友情、正義、共感、自己犠牲。明快すぎるくらいシンプルな描き分けだ。ちょっと様式的に見える所もある。絵に描いたような「ここはオレに任せろ!」的展開とか、一瞬平穏になったところで泣かせの独白が始まるところとかね。
それでも、ここでも書いたけれど韓国映画は近過去の暗黒面を直視して、ちゃんとメジャーな娯楽作にしあげるところ、今年で言えば『デトロイト』に共通する腰のすわったものを感じるのは確かだ。
そんな世界だけれど、小道具と風景と画面の色調のチューンがすごくよくて、全体をじつにしっとりした世界にしている。黄緑のタクシーと黄色いシャツの主人公。車が光州市を出ると、平和そのものの5月の農村を走る。光州の外のひとびとは,遮断された街が戦場になっていることなんて知らないのだ。新緑の緑とタクシーが映えるように、画面は少しイエロー方向に振ってある。ちょっとした家や修理工場のわびた風景も自然だ。

ところで、光州まで10万ウォン、って商売としてはおいしいんだろうか。物価指数は2018年は1980年の約5倍と考えると、今の金額で5万円になる。ソウルー光州は、約300km、東京ー名古屋くらいの感じ、日本だと5万円では片道でも無理だ。ただし韓国のタクシーは日本より安めで、全般にタクシー運転手の給料が低いといわれる。お話の中では家賃4ヶ月分だ。おいしい仕事なのはたしかだけど多分、命をかける値段じゃ、ない。