BISキャノンボール


<公式>
ストーリー:アイドルグループBIS解散ライブの前日、ハメ撮りAV監督たちが集まった。前日・当日・翌日の彼女たちを追うのだ。それぞれにカメラを持って、メンバーたちと1対1で一晩過ごす。もちろん彼女たちには寝耳に水だ。翌日会場にあらわれたメンバーたちは激怒していた。そんな状態で最後のライブがはじまる….
監督はカンパニー松尾。かれの企画『テレクラキャノンボール』の展開版だ。1日目の前半、BISメンバーと監督たちの顔合わせから、それぞれ横浜アリーナまで移動する間を編集したSSTVの無料動画もある。TV版だからやばいシーンはなくて、その分監督たちのインタビューで彼女たちに語らせている映像が多い。これならふつうのアイドルドキュメンタリーだ。ちょっとしたゲーム的試練をあたえるのもめずらしくない。ぜんぜん知らなかったBISというグループのこと、劇場版よりこっちのほうがまだすこしわかる気がした。
劇場版は1日目の夜、監督たちがメンバーが滞在するホテルの部屋までいって1晩すごすシーン、翌日メンバーが再集合してのリアクションがメイン。ライブは見てるだけ、帰りの虚脱した彼女たちを送っていくシーンもほぼエピローグだ。2つのちがい、あれこれいいわなくても監督カンパニー松尾のコメントがいちばん整理されてる。

まぁ思ったのは2つかな。ひとつは劇場版だとAV監督たち、ある意味主役として写っているわけだけど、この視点がちがったんじゃないかというところ。『テレクラキャノンボール』だとそういう視点ありだっただろう。ゲームをしてるのは監督たちで、女の子たちは車やバイクのレースとおなじゲームの対象だ。劇乗版でもアイドルたちは、監督たちがどう攻略するかの対象、みたいな扱いになってる。だから写っている彼女たちも「どんな子で何を考えてるのか」はリアクションの観察みたいな視点になって、そこはものたりない気がした。監督たちの自我や思いとか、男同士のミーティングでげらげら笑ってる映像がででてきても「そこはいいよ」って感じだ。監督たちの自我は彼女たちから引き出す会話と撮り方で見ればじゅうぶんだよ。
もうひとつ、追い込まれたメンバーたちの中で、「ようするにあたしたちを性的に消費したいんだろ」と即座にわりきり、お仕事としてセクシーなかっこうをして見せた女の子がいた。彼女は最後に加入したメンバーで、リーダーからも「なにも考えてなくてうらやましい」とかいわれる子だ。でもある意味彼女の対応が最強だった。素の反応があろうとなかろうと、セクシーなイメージがそこにあれば監督は撮るしかない。ホテルの部屋の2人は、ただのセクシーアイドルとカメラマンになった。監督が最後にその子とSEXする幻想をもとめたのはいいオチになっていた。
じつは自分から脱いでみせた子はもう1人いた。きれいだけどきつめな感じの子だ。彼女は翌日企画者のマネージャーに涙ながらに猛抗議した。その差はなんだっただろう。アイドルとしての自我の有無だけじゃなかったような気もする。

日々ロック


<公式>
ストーリー:いじめられっ子の拓郎(野村周平)は高校の同級生と結成したスリーピースバンドでロックにつかる日々。拓郎たちがいそうろうするライブハウスに来たスーパーアイドル咲(二階堂ふみ)は下手だけどストレートなかれらの歌になんとなく惹かれる。ライブを成功させた咲はプロデューサーにたのんでかれらをフックアップしようとするが.....

主人公のキャラは『ボーイズオンザラン』の主人公田西(峯田和伸)のヘタレ期とほぼ同質。ふだんはくにゃくにゃして挙動不審で、ほぼまともに会話ができない。原作でもここまでなの? あまりにもまともなセリフがないから主人公なのにどういう人かいまひとつわからない。で、ライブになると突如格好よくなってシャウトするワケだ。まぁそういうキャラクターなのは分かる。音楽100%男なのはね。そうとう記号的な拓郎くんだ。でも主演の野村周平は峯田@銀杏BOYZほど異形じゃない。アフロで裸だけど、意外とたたずまいがふつうなので、見えないところではまともなんじゃないかと思ってしまう。
お話は簡単そのもの、ひねりゼロ。せっかく咲がチャンスをくれたのにモノにできなかった彼らは、最後に「なんのために歌うのか」やっとはっきりして咲に恩返しをする。クライマックスのライブシーンは何から何までベタベタだ。でもじーんとはする。恩返しができてどうなったのかは見せない。監督の出世作SRサイタマノラッパー』シリーズみたいに、「それでもおれたちは続けるんだ」という後味だ。
ライブハウスとか地方でバイトするシーンとか、このあたりはインディーズ的でもあるけど、演奏シーンはそれなりにしっかり準備したんだろうと思う。上手くはないけどロックバンドに見える。1人プロのドラマーは別カメラで見せたりする。かれは芝居でもやけにいい味をだしている。あとアイドル咲のライブシーンはここに予算を集中した感じで、大きい会場を借りておおぜいのエキストラを入れ、うそくさくなく見せてる(ステージ上に咲以外だれもいなくて機材もなにもないのはそういうものなのか予算なのかわからなかった)。

ヒロイン咲の二階堂ふみは『雨上がりの夜空に』を歌うシーンでは『ソラニン』の宮崎あおいに負けてる感じだけど、キャラクターによくあっていて魅力的だ。彼女がうそっぽくないのはこの映画にとって死活問題だもんね。いっぽうプロデューサー役の毬谷友子はなんか像として古い気がした。『へルタースケルター』の桃井かおりみたいなゴージャス中高年女性で、エレクトリックポップを歌う咲を仕掛ける雰囲気じゃないのだ。あと、ライブハウスのオーナー役の竹中直人。この手の役にはとりあえず直人、という風習もそろそろいいんじゃないか。

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ


<公式>
ストーリー:携帯の電波もはいらない田舎にすむ和合家。ホラー漫画を描く高校生の妹(佐津川愛美)の目の前で両親がトラックにひかれた。葬儀の日、4年前に女優をめざして上京した姉(佐藤江梨子)が帰ってくる。妹はおびえたようすだ。炭焼きを仕事にする長男(永瀬正敏)は結婚してまもない嫁(永作博美)に「おれら家族のことには口をだすな」とぶっきらぼうに言う。クイーンのようにふるまう姉だったが……
本谷有希子の原作モノだとわりと前に見た『乱暴と待機』以来。吉田大八監督がどのくらい原作劇からアレンジしてるのかわからないけど、劇では妹が描く漫画はどんなふうに扱われたんだろう。プロジェクターかでかい垂れ幕みたいので見せたんだろうか。というのは、すくなくとも映画では妹が描く漫画がすごく大きな存在で、影の主役といってもいいくらいなのだ。

妹が描くのは恐怖と憧れの対象である美しい姉だ。妹は4年前にも姉を主人公にした「女優になりたい」という漫画で雑誌のコンテストに入賞していた。なりふりかまわず上京資金をかせぎ、家族争議で包丁をふりまわす姉の漫画はなぜか村中の話題になり、家族はいたたまれない日々をすごすはめになった。「漫画のせいで演技に集中できなくなった」と姉はいまでも妹をうらんでいる。マイナーなホラー漫画が村中で読まれる展開というのもちょっと想像しにくいけれど、とにかくそのくらいの影響があったのだ。
そして姉が帰ってきて家の支配者になると、妹のペンはもう一度その姿を形にしはじめる。劇中で漫画は何度も映される。絵はホラー漫画家の呪みちるが担当。漫画作品の絵とはすこし違って、サインペンだけで、ベタまで線で描いたみたいな絵だ。これがすごく引力がある。ホラー漫画家らしく明暗の表現がすばらしく、手足が長く美しい姉は蜘蛛みたいに怪物的で、妹自身は被害者であり窃視者として描かれる。この絵の力が映画全体の画の力にもなっている。ひょっとするとこの絵のできばえに、映画の中でも存在が大きくなったのかもしれない。

お話は極端なできごとの連続で、平坦な日常描写は基本的にない。居心地が悪いか実際にひどいことがおこっているかだ。石川県輪島の平和すぎる農村風景のなか、家のシーンはゆったりした民家でたぶんほとんど撮影していて、画面も比較的のどかでぬけがある。そんななかで極端なキャラクターたちの奇妙なエピソードが続き、ラストは強烈なまでのどんでん返しによって逆転がおこる。ぜんたいに戯画的な印象だ。とはいえ細かい部分に急に繊細な演出があったりして、その緩急はなかなかいい。
主演級の4人はだれもいい。佐藤江梨子は異様なまでに手足がながくやせているのに巨乳という、そのスタイル含みの強烈なアイコン性で「彼女しかいない」感じをかもしている。彼女の役は油断するとたんなる痛々しい可哀想な存在になる。それだと話全体がペシミスティックでじめっとしたものになってしまう。しめっぽくならないのは、この女が完全に他責的で自分に疑問を持たない強さがあるからだけど、彼女の雰囲気がその強さを体現している。もう1人置きかえられないのは嫁役の永作博美だ。旦那にほぼ虐待されていて濃密すぎる家族の一員にもなれていない、でもお人好しで妙に明朗、という役柄。基本的にはコメディの役だ。でも「私たち……か、家族……なんだから」「私……つ、妻なのに」みたいに、家族になれていない自覚がちょっとおおげさながらはさまれると切ない。そのあと少し女として立ち位置に自信が出てきている変化とかも含めて、たんなるお人好しの傍観者じゃない、最後までなにかありそうだと思わせるような多面的なキャラクターに嫁がなっているのは、彼女の演技による部分がけっこうおおきいんじゃないか。あと脇役なんだけど、姉の愛人兼借金取りで東京からやってくる太いズボンの中年男がいる。この人がやけにいい。

もらとりあむタマ子


<公式>
地方都市と女の子もの、かつ「あたし何かになりたい」という思いと「こんな家、こんな田舎でたい」という思いが結合しているあたり、『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』とも共通してる。地方都市・父と娘・アイドルに、という設定は『あの娘はやくババアになればいいのに』とも似てる。ほんとに淡々としたお話だ。実家に戻ってきてごろごろしている娘(前田敦子)がほぼひたすらゴロゴロしている秋〜冬編。ちなみにこのパートは3日で撮影されたというからすごいね。撮れちゃうんだ。春編では娘は急にアイドルにめざめ、プロフィール写真を撮って…….あれ、なにかに送ったんだっけ? わりと前だから忘れてしまった。夏編では離婚されて1人になっている父に結婚相手候補があらわれて娘がそわそわする話。でもすべては何かが起こる前のことだ。
とことん穏やかである。前田敦子はシスコン系妄想漫画とは真逆の「じつは家にいる女子は意外とうざい」ありようを全身でみごとに体現している。いえすいません。弟の立場にいたわたしの偏った体験にもとづく偏見ですもちろん。この娘も、かいがいしい父も、なぜか娘の弟分にさせられている知り合いの中学生も、その彼女も、みんな愛玩動物のようにかわいく見られる。

「かわいく見られる」と書いたけれど、この映画のいいところはヒロインがべつにかわいくないところだ。ぶっきらぼうだしどこかアホだし、まともに喋るところでもぼそぼそした喋りだし、だいたい一度もかわいいファッションをしていない。前田敦子のシルエットは服の補正がないとものすごく普通だ。いいじゃん、そんなにかわいくなくても。みんながみんな。なんていうか女の子を解放するみたいな話なわけじゃないですか。コミュ力なくても意識高くなくてもなにか持ってなくても、かわいい子やってなくても、居場所はちゃんとあるんですよ、ていうね。