シビル・ウォー & 終わらない週末 〜アメリカ終了の予感

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ストーリー:連邦政府から19の州が離脱したアメリカ。テキサスとカリフォルニアの同盟“西部勢力”と政府軍の間で内戦が勃発し、ワシントンD.C.の陥落は目前に迫っていた。報道写真家リー(キルスティン・ダンスト)新米のジェシーケイリー・スピーニー)たち4人のジャーナリストは、大統領に単独インタビューを行うため、NYからホワイトハウスへと向かう。だが戦場と化した旅路を行く中で、内戦の恐怖と狂気に呑み込まれていく....

大統領が専制化して反対勢力に「アメリカの国土で」武力攻撃を仕掛けるのを発端に、全面的な武力闘争になだれ込んでいく。監督・脚本のアレックス・ガーランドはぼやかすことなく「トランプのような危険な人物に対する危機感」が動機になっているという。イギリス人監督が警鐘を鳴らす本作はアメリカでも大ヒットしたけれど、けっきょくトランプを支持するアメリカ人の方が(得票総数で見ても)多かったのは皆さんご存知のとおり。

本作では国内の分断・他者への攻撃性が、戦争というお墨付きを得て露骨に表面化するすがたをまず描く。数年前から起こっていたことだ。デモに対する攻撃、それに誰もが忘れない議事堂の襲撃。私兵や民兵とも軍人とも分からない男たちが意気揚々と政敵をリンチにかけ、捕虜を銃殺し、よそ者を尋問して処刑するのが写される。本作の象徴となった「アメリカ人.....?どんなアメリカ人だ?」という、演じたジェシー・プレモンスは「精神が汚れた気がする」といい、尋問される側のブラジル人俳優ワグネル・モウラも撮影後涙が止まらなかったというあのシーンもだ。

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(C)2023 Miller Avenue Rights LLC; IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved.

そこで撃たれ、あるいは撃たれそうになるのが戦場ジャーナリストだ。作中で語られる「目の前で人が撃たれる時、ジャーナリストは飛び出してそれを止めるべきなのか、撮影して世界中に知らせるべきなのか」の問いは、100年近く前から、カメラマンが戦場に飛び出すようになった時からある。いろんな作品でその苦悩は語られてきた。新しい問いじゃない。

本作のジャーナリストの撮影シーンがどのくらいリアルかはわからない。戦場ドキュメンタリー『アルマジロ』では撮影クルーが最前線で兵士と同じ塹壕まで行った。本作ラストの一番危険なシーンでもジャーナリストたちは突撃隊についていく。でも防弾チョッキもヘルメットもなしだ(見直せば何か物語の必然があったのかもしれない)。どこか象徴性をおびているみたいにも見える。

新人のジェシーの機材は古いニコンFE2でモノクロフィルム撮影だ。報道カメラマンなら何があっても取れ高ゼロにならないように失敗のない機材で大量に撮っておくものなんじゃないの?という突っ込みは100%承知でのこの設定。リーも加入している写真集団マグナムのメンバーみたいな作家的写真家になっていく人として描いているんだろうか。ジェシーケイリー・スピーニーが写真家として覚醒していく怖さがなくて幼く見えすぎ、はまりが悪く感じてしまった。

2024年の大統領選は、権威ある既存メディアの敗北だとも言われる。予想を外し、社説ではっきりと意見を言えず、イーロン・マスクのXの影響力に持っていかれた旧メディア。戦場ジャーナリストたちはたぶんフリーランスだけど、従来のメディアの枠組みで動いていくタイプに見える。メディアにそれなりの正義と影響力があって、自分たちが危険を冒しても「真実」を探り提供する価値があるという前提の....メディアがぐらぐらになり、プロパガンダとしての情報発信が普通の政治技法になっている今、そのジャーナリスト像にもう一捻りあるとさらに刺さる作品になったかもしれない。

という感じでわりと文句ばかり垂れておいてなんだけど、緊張感とエンタメ性と、何か考えた気にさせるテーマ設定と、文句なしに面白い作品だ。


🔹終わらない週末

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ストーリー:アマンダ(ジュリア・ロバーツ)クレイ(イーサン・ホーク)と息子・娘の家族はロングアイランドの森の中の別荘をレンタルし休暇に出る。別荘では携帯電波もネットもつながらない。夜、上品な黒人の男と娘が別荘を訪れる。2人は別荘の所有者、外出先でトラブルがあって帰ってきたという。警戒しながらも家に入れた1家、翌朝様子を見に行ったかれらは何かとんでもないことが起こっていることに気が付く.....

大統領選前にもいろんな所で応援演説をし、応援ツイートをしていたバラク・オバマ。かれもしばらく息を潜めて暮らすんだろうか。そんなオバマが制作に入っているのが本作。去年の年末くらいの配信だったかな。

本作も「アメリカの終焉」を普通の人の視界から描く作品だ。とはいえ内戦じゃない。アラブなのか中国なのか、外国からサイバー攻撃やリアルな攻撃を受けて、ネットワークは麻痺し、自動航行の巨大船や自動運転のテスラがまともに動かなくなる。もちろんネットの情報もまったく入らなくなる。

そんな中での別荘は嵐の中の小舟みたいな存在で、見知らぬ人たちも身を寄せ合うしかない。何かの攻撃を受けて政府機能が麻痺していることはわかる。でもそれ以外も周囲の森が奇妙な場所になり出したり、理解しにくい空気が充満していく。

物語のスタイルとしては1つの類型だ。ゾンビものでお馴染みだ。ただし本作では主人公たちの2つの家族以外、ほとんど他者は出てこない。ロングアイランドの美しい風景のなかで何も分からず今までいた世界の崩壊をだんだんと感じ始める。そんな予兆みたいな作品だ。

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エイリアン過去作一気見! 〜エイリアン3・4,プロメテウス,エイリアン:コヴェナント

前作から7年ぶり公開の『エイリアン・ロムルス』劇場公開も終わった頃になって、なんとなく影響されて過去作を一気見。エイリアンシリーズの美点は新作もふくめて2時間にきっちり収めてくるところ。だから割合さっくりと見られるのだ。

 

リドリー・スコット監督作『エイリアン』は1979年公開、それから45年。じつに読みやすくてツボを押さえたシリーズ解説がここにある。これでだいたいはわかる。

とにかく第1作チームが創造したエイリアンの造形、物語のフォーマットがあまりにも力強いので、その後の作品も取り入れないわけにいかない。異才監督ホドロフスキーの『デューン』プロジェクトから再集結したクリエイターたち(こちら参照)、ダン・オバノン、クリス・フォス、ギーガー.....みんな独自のビジョンを持ってるタイプだったんだろう。それをまとめて引き締まった映像美と遠慮のないスプラッターの中に開花させるスコット監督。

エイリアンの造形に加えてあのヌメヌメ。あれは以前にも映画表現にあっただろうか。そして原始的恐怖に直結する開口部からの体内侵入、人体の柔らかさをいやでも思い出させる皮膚貫通。人間は見通しが効かない宇宙船の通路空間で突然エイリアンに出会うしかない。さらに人間に対してなんとも言えない距離感をもつアンドロイドがキーパーソンになる。このアンドロイドもメカっぽくなく別の生物めいた気持ち悪さを備える。

モンスターとしてのエイリアンのキモさはなんと言っても過剰に生殖し繁殖するところだ。アイコニックな「フェイスハガー」(卵から顔に取り憑いて体内に何かを注入する)が象徴だ。人間への攻撃と繁殖が一体となっていて、人間はそのサイクルに組み込まれてしまう。だからシリーズ主人公は常にヒロインで「呪われた母性」のようなものを背負わされるのだ。

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(c)20th century Fox via Amazon

🔹エイリアン3、4

第1作、それにジェームズ・キャメロン監督の第2作に続いて制作された3,4作はどっちもあまりヒットしなかった。デヴィッド・フィンチャージャン=ピエール・ジュネという今では立派な奇才・巨匠監督たちにとってもまるでいい思い出じゃなかったそうだしね。3は明らかにきつい感じがする。見捨てられた惑星の囚人施設が舞台で、監獄島モノみたいなものだ。

いつもにもまして舞台は殺風景だし、墜落したリプリーシガニー・ウィーバー)以外は全員マッチョな坊主刈りの男たちでそれなりに変えてはいても他作と比べると均質すぎて、ヒロインも登場してすぐに坊主刈りになるし、とにかく画面が荒涼としているのだ。大戦争だった2と違ってエイリアンの数は絞り込まれ、基地の通路を逃げ惑ったりゲートを閉めてエイリアンを追い込んだり、第1作に少し近づく。リプリーの「呪われた母性」が前面に出てきて、前年公開の『ターミネーター2』を思わせるオチで締める。

4は3の数十年後、巨大宇宙船で物語が展開、前作とがらっと変わって端正な空間が舞台になる。特に序盤はシンメトリーな幾何学的画面がエイリアンらしくない落ち着いた上品さすら醸し出す。登場人物は前作の反省からか一目で見分けがつく男女混成チームで、ジュネ監督でお馴染みのロン・バールマンやドミニク・ピノン、それにウィノナ・ライダーたちがちょっと無法者テイストのチームで宇宙船に乗り込むのだ。

第1作から350年たっているのにまたもリプリーがクローンとして登場する。第2作から戦士として覚醒していたリプリーはもはや超人の域に達しており、誰よりも強く、しかもエイリアンのことをよく知っている。実世界でもプロデューサーに入っているウィーバーはいろんな意味で強いのだ。

ここではエイリアンのお約束から少し広げて宇宙船なのに水中シーンがあったり、あとは母性、生殖の部分がさらに広げられてラストではえもいわれぬエイリアンの発展形が現れるのだ。そんな華やかさやイメージの広がりもあって本作は普通に楽しめる。


🔹プロメテウス、エイリアン:コヴェナント

リドリー・スコット監督に戻り、第1作の前日譚になるシリーズ。どちらも2010年代の公開ということもあって映像は今と全然違和感がない。とにかく美しいのだ。リドリー・スコット的と言ってもいいのか、寒色系が支配する画面で、巨大な空間や構造物を高精細に見せる。『コヴェナント』の舞台は植物が茂り人間が生息できる惑星。ニュージーランドフィヨルドランド国立公園でロケしていて超巨木の森の風景がすごいし、クラシックな空間が出てくると古典絵画イメージが広がる。『君たちはどう生きるか』と同じ「死の島」のダイレクトな引用もある。

この2作、主人公はエイリアンじゃない。もちろん十分に暴れ回り、人体を破壊し、宇宙船の中を自在に駆け回る。でもエイリアンは謎の宇宙生物じゃなく、超文明が作り出した人工生命体だったのだ。エイリアンは邪悪な飼い主が首輪を外したピットブルみたいな存在で、悲惨な目にあう人間たちを、エイリアンの後ろで見ている者がいる。過去作でも大企業や軍事組織がエイリアンを繁殖させコントロールしようとしてきたところを、ラボから漏れ出した致死性ウイルスみたいに、コントロール不能になりあらゆる人間を逃げ惑う存在に変えてしまうところがエイリアンだった。この2作では色々と操れる生物兵器化している。

ここでは物語のもう1つのフォーマット、「人間と微妙な距離感をもつアンドロイド」が前面に出てくる。というより主人公だ。マイケル・ファスベンダーが演じるデヴィッドというアンドロイドはもう1つのプレイヤーである「エンジニア」という存在に触れて、エイリアンをコントロールする存在になっていく。その一方で人間たちはひたすら間抜けになっていき、どちらもヒロインだけが「呪われた母性」とも戦いながら生き延びていくのだ。

それにしても『プロメテウス』のファスベンダーは、あまりにもAmazonドラマ『The Boys』のホームランダーに似ている。そこもまた味わいだろう。

 

ナミビアの砂漠 & 夜明けのすべて & あんのこと.

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ストーリー:21歳のカナ(河合優実)は脱毛サロン勤務。不動産会社に勤めるやさしいホンダ(寛一郎)と別れ、ボンボンのクリエイターハヤシ(金子大地)と暮らすようになる。でもカナのメンタルはだんだんキツくなっていき.....

監督、山中瑶子。スタンダードサイズの狭い画面の中でもがいているような河合優実をひたすら見せる。いろんな人がいうようにグレタ・ガーウィグの『フランシス・ハ』や『わたしは最悪。』と並べたくなる。このヒロインは清々しいくらいだれともつながらず、シスターフッド的香りもない。あと特徴的なのは音楽で物語の雰囲気を作ることもいっさいしない。カナが聞いているであろう環境音を強調して聴かせる。混沌とした状態では色んな音が過剰にミックスされてノイジーに響くのだ。

カナの表情やセリフは実にいろんなトーンがあって見飽きない。歩き方だってシーンでぜんぜん違う。カナはハヤシに基本むかついていて、まったくそれをためないどころか殴る蹴る、物を落として拾わせるなどを繰り返すのだが、罵倒のトーンも上手くて聞いていて気持ちがいいし、乱闘シーンもお互いに傷つけないように揉めているのがわかるので微笑ましく見られる(でもだいぶ疲れるはずだ)。変な表現かもしれないが、河合さん、シルエットはスリムながら身体がダイナミックで、独特の野太い感じが日本人俳優には珍しいんじゃないか。

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(c)2024 ナミビアの砂漠製作委員会 ハピネットファントム・スタジオ

本作、じつはヒロインのセクシーな映像がけっこう多い。セクシャルなシーンじゃない。それは1シーンだけで、あとは自宅でまどろんでいたり、リラックスしていたり、彼女の単独シーンなのだ。変な話、女性アイドルのイメージビデオで1人でリラックスしている風な映像がよくあるけど、ちょっとアレに共通する部分もある。絡みは邪魔なのだ。『哀れなる者たち』(セクシャルなシーンを全然セクシーじゃなく撮る)と逆だ。

カメラ位置が少々あざとい時もあって、いま男性監督が若手新進女優にこういう撮り方はしづらいはずだ。監督はどんなつもりで撮ったんだろう。意地悪く解釈すれば、男性の観客と撮り手のメイルゲイズ(男特有の視線)を露悪的に「こういうの見たいんだろう」と突きつけて見せたのかもしれない。物語の中でも彼女はそんな視線にちょっと晒されるしね。あるいはもっと素直に同性ながらえもいわれぬものを感じて映像に残したのかもしれない。

とにかく、そんな撮り方ができたということも、いい感じに振り切った演技も、きれいにまとめようとしないちょっとコラージュ的作りも、すごく「今の記録」という感じがした。2024年の、ということもあるけれど、ようするに若さということだ。撮り手と俳優のね。これからも、もっと存在感が増した2人のコラボレーションはあるかもしれない。そこでは相応の違う撮り方や演じ方になるだろうから。

 

 


🔹あんのこと

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ストーリー:21歳の杏(河合優実)は母親のDVに苦しみ学校も行かず売春で家計を支え覚醒剤にはまっていた。逮捕した刑事多々羅(佐藤二郎)が運営する支援組織に通い、週刊誌記者桐野(稲垣吾郎)のつてで介護施設で働きはじめた杏は夜間学校にも通い少しずつ人生を立て直していく。しかし2020年、新型コロナ蔓延ですべてがくずれ....

2024年公開、監督入江悠。実話の悲劇がベースだ。物語の大枠は忠実な再現で、変えているのは多々羅の事件が起こったタイミング、それに後半にある、杏のもとに飛び込んできたある出会い、の2つだ。

監督はアメリカ韓国と違って日本でこういうジャーナリスティックな商業映画が少ないこと、そのリスクを避けようとすることを言っている。本作ではそんな使命感や覚悟もあったんだろう。その分、必要以上に美談にしたりキャラクターを魅力的にしたり面白くすることも抑えたと思う。

だから見ていて辛い。ジャーナリスティックな作品の『福田村事件』の世話物的な面白さも、おなじような社会から見捨てられた女性を描いた『市子』のピカレスクロマン的魅力も、あえて封印していて、事実とおなじようにカタルシスも救いもない。

無料の配信ならともかく(ぼくもそれで見てる)劇場にお金を払って見にいく動機を持つ観客はやっぱり少ないモチーフだろう。彼女の境遇に共鳴する人にはあまりに辛い。じゃあ彼女とは遠く離れた環境の(ある意味しあわせな)人がある種の使命感で見に行く?.

『福田村事件』も『市子』もそうだけど、俳優の役割っておおきいなと思う。画面にチャームと豊かさを与える役者の魅力。メジャーで活動する俳優が、若い世代もこういう仕事をやってくれるのはすごく頼もしい。

 

 


🔹夜明けのすべて

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ストーリー:PMS月経前症候群)に悩み理解ある職場に移った藤沢さん(上白石萌音)とそっけない後輩の新入社員山添くん(松村北斗)。山添はパニック障害で元の職場を続けられずここに移ってきた。2人はお互いの症状のことを知り、なんとなくお互いに助け合う....

2024年公開、監督三宅唱。主人公2人とも「自分ではどうにもならない自分」を抱えて、待遇のいい企業からドロップアウトした、乱暴に言ってしまえば社会の弱者の側によった若者の物語だ。でも『あんのこと』に比べると穏やかな気持ちで見られる。最初から最後までまったく辛くない。ちょっと微笑むようなシーンもあるし、だれもが魅力的だ。後半のちょっとした2人の達成と、テーマが劇中の言葉になっていく展開もきれいだ。

最初は2人がいる会社が「なんぼなんでもユートピアすぎだろ」とは思った。あまりにも社長はじめだれもが優しいし、ものすごくマイナーな分野の会社なのにそこそこの人数が長年務められるくらいには経営も安定していそうだ。この擬似家族的な「救いの居場所としての会社」描写、時々出てくる。古い例で思い出したのは『ボーイズ・オン・ザ・ラン』の会社だ。

たぶん監督は「こうあるべき」世界を描こうとしたんじゃないか。人の弱点を受け入れて、それぞれできる範囲で助け合う関係(人生を捧げて誰かを救おうという偉人的な人は出てこない)。弱点のせいで排除されないから自分もそれを認めて共生できる。ユートピアな会社だけじゃなく、山添がいたもっと競争的な会社の上司もそういう柔らかさを持っている人として描かれる。

舞台は大田区の馬込周辺。下の写真みたいな感じの線路脇の坂が印象的に映される。冬場メインの印象で、藤沢さんのコートとマフラー姿は可愛かったけれど、風景が少し寒々しくて日本映画で時々ある感じを受けてしまった。でも飾らずに美しさを見出したいんだろうなあ。監督の前作『ケイコ 目を澄ませて』でもやっぱり普段着の風景ですべてを撮っていた。

憐れみの3章

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ストーリー:①ロバートは雇い主のレイモンドに家も妻との出会いも車も頼っていた。でも実はロバートは日常生活のすべてをレイモンドに細かく指示されて生きていた。ある日究極の指示を受けたロバートは.... ②警官のダニエルの妻、海洋学者のリズが遭難から生還してきた。でも何かが違う。妻そっくりの偽物だと信じたダニエルは.... ③とあるカルトに入信したエミリーは死者を蘇らす力のある女性を探している。別れた夫と娘に気持ちが残るエミリーは.....

ヨルゴス・ランティモス作品、今年で2作目だ。前作『哀れなる者たち』はかなり好きな1作だった。その前の『女王陛下のお気に入り』とならんで、原作をもとに物語世界を豊かなビジュアルで見せるタイプだった。

本作は、それ以前の作品に近い感じだ。画面に映るのは僕たちが暮らすこの世界。ニューオリンズ周辺で撮影した風景は大袈裟なエフェクトや強烈なビジュアルを足すわけでもなくて、一見普通のリアリスティックな景色だ。そこに監督独特のヒヤッとするような設定を入れて、いつもの光景がどこか悪夢的な異世界に見える、そんなダークコメディだ。

物語は3話のオムニバス。共通のモチーフとして「RMF」と呼ばれる小太りの中年男性が毎回出てくるのだが、他は同じキャスト(エマ・ストーン, ジェシー・プレモンス, ウィレム・デフォー, マーガレット・クアリー, ホン・チャウ)が違う人として出てくるから地続きの話じゃない。見ている側からすれば、メジャーな俳優たちなのもあって余計に「演じられている物語」なことを意識するようになる。

短編だからそれぞれの物語もおおきくない。1つのアイディアで世界を歪ませて「どうなるの?」と引っ張っていく。どれもが支配と従属、愛と信仰、それに性愛をめぐる物語。監督独特の嫌な感じで味付けされて、共感できる登場人物はほとんど出てこないし、わざと嫌悪感を感じさせる描写やふるまいに満ちている。ヨーロッパ系のある種の伝統だと思う。オストルンドの『ザ・スクエア』なんか空気感が近いし、ハネケの『ハッピーエンド』、あとはトリアーだって悪意では負けてない。日常的ビジュアルに設定だけずらして奇妙なスリルを醸し出す、濱口竜介の『偶然と想像』みたいな、予算を組めない日本の作り手たちもこういうタイプは作っている。

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(c)2024 serchlight pictures, element pictures etc. via imdb

被写体は特別なものはないけれど、どこか奇妙で日常臭がないのは撮り方のせいもある。公式の中にもあるけれどアナモ(ル)フィックレンズを多用しているそうだ。撮影時に横方向を圧縮して、後処理で実際の縦横比に戻す。フィルムやイメージセンサーを効率よく使うためもあるし、独特のレンズ効果もあるらしい。スマホ用のお手軽版もあって見てたら急に欲しくなってきた。まあ僕が知らなかっただけで今までもアナモフィックで撮られた映像なんていくらでも見てるんだろうけど...

映像は広角で空間をおおきく見せて、その中心にややポツンと人物がいる構図がけっこうある。シンメトリーな構図も多い。レンズの歪みを嫌っていないから、本来直線的な室内や建物周りも歪んでどことなく現実から離れた悪夢的な世界になる。『哀れなる』でも飛び道具的に魚眼レンズを使ったりもしていた監督は、少し大袈裟にレンズのクセを使って世界を見せるタイプなのかもしれない。

物語はゆうたら寓話だから、いろんな取り方ができる。第一話はシンプルで、見えないところで世界を統御しているみたいな支配者と、支配されることで快適に生きてきた男の物語。支配を解かれた男は世界そのものから排除されたことに気がつき、自分1人の自由も手にあまることを思い知る。そんな絶対的な支配者が求めるものは服従だけじゃなく、愛なのだ。

第二話は『ローズマリーの赤ちゃん』型のニューロティックホラー的な作りで、主人公が狂っているのか周りの世界が狂っているのか最後まで判断がつかない。主人公は明らかに変だしとても共感できるタイプじゃない。でも仮に主人公が正常だったとすると、狂った世界は敵じゃなくまるでそんな彼を愛しているようにふるまい、つくすのだ。

第三話はセックスカルト教団を描く。ヒロインは家庭を捨てて教祖とのセックスに嬉々として応じる。その一方でデートレイプ的な出来事の被害者にもなる。ここではいわゆる愛はもっとも影が薄い。

個人の物語というふうにも見えるし、無理やり社会と個人のアナロジーのように解釈もできそうだ。GAFA的巨人のコントロールを受け入れて判断を放棄する人々、移民たちを信用できない異人種として排除する社会と受け入れられるために過剰な適応を強いられる移民の姿、自国民や自分たちの人種だけの純潔性をこわばった形で強いる集団.....みたいなね。

そんな中でいつも通り、「性」の問題をどうしたって避けられないものとして露悪的にぶち込んでくるのがいつものランティモス流だ。

マッドマックス:フュリオサ&アラビアンナイト三千年の願い  ジョージ・ミラー2作

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ストーリー:世界文明崩壊後の世界、いやオーストラリア。砂漠化した大地の中に残る文明、「緑の地」は女性が統率するコミュニティだった。少女フュリオサは襲撃してきたバイカー軍団に攫われる。それ以来フュリオサはならず者集団の中で腕を磨き、復讐のチャンスを狙っていた。エリアを支配する3つの集団の三すくみの中で....

2024年6月公開。記念碑的作品『フューリー・ロード(怒りのデス・ロード』のプリクエルだ。世界でも、それに日本でも前作ほどの興行収入は上がっていない。たぶん10億くらいだ。本作、結論からいえば視覚的にも語り口にも十分満足した。ただ前作みたいなある種の普遍性は感じなかった。作り手もそれは承知だろう。

前作、当ブログでは「映画の直線番長」的に紹介した。とにかく突っ走る集団の、そして物語の方向がまっすぐすぎるのだ。まっすぐいって、まっすぐ帰る。本作はまず空間的なところで言えば直線往復じゃなく、三角移動だ。物語の舞台が「水と食糧」「石油」「武器」の3つの供給基地で、軍団は敵も味方もその間を何度も行ったり来たりする。まずそういう意味での移動の異様なシンプルさ、象徴性はない。

もう一つ空間的な違いは「高度差」の導入だ。前作は例外的な奇襲以外、敵も味方もほぼ平地の砂漠を爆走していた。前作見た人なら覚えている棒高跳び式攻撃も、平地のムーブに高さを加える動きだった。本作では地形そのものが砂丘だったり岩山だったりして、改造車たちも登攀力を誇示したり、飛行物体も加えて、上から・下からの攻撃があって動きのバリエーションは増えた。前作の抽象的とも言える大地と比べると自然になったとも言える。

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(c)2024Worner Bros. via imdb

ちょっと残念なのは、地形に変化をつけた割に、3つの拠点はロケーションにあまり特徴がなくて距離感もよくわからない。フュリオサがいるイモータン・ジョーの拠点だけ岩山で、それも平地の中に突如あるので、間の移動がすごく記号的だ。こむずかしい言い方をすれば場所性があまりないのだ。前作は抽象的なまでにシンプルだったおかげで、出発点(イモータン・ジョーの拠点)、目的地(緑の地があったはずの場所)、中間点(岩山のゲート)の関係が分かりやすかったのだ。

物語の最初、前作でフュリオサが目指した故郷の楽園、緑の地のシーンになる。じつを言うと、このシーンでいきなり少しテンションが下がってしまった。美しい渓谷は森が広がり、集落には発電用風車やソーラーパネルが見えている。緑の地は物語上の善的なものの代表だ。青々とした木々や果実、それは分かる。自然と共生したクラフト的生き方、文明崩壊後だからまぁそうもなるだろう。でも自然再生エネルギーをわざわざアトリビュートとして入れるの?...なんか分かりやす過ぎて少しげんなりしてしまったのだ。

あと普遍性という意味では、ヒロインのアニャ・テイラー=ジョイだ。全く悪くなかったと思う。アクションもトロくは見えない。ただ目の周りを黒くする例のメイクになると少々漫画っぽい。つくづくシャーリーズ・セロンは普遍的な顔だと思う。変な話、彼女の顔って整いすぎてすぐに思い出しにくい感じがする。アニャはその点強さはあるけど親しみやすい、覚えやすい顔だ。シャーリーズの普遍顔が物語のトーンに神話性をプラスしていたんだなと思う。


🔹アラビアンナイト 三千年の願い

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ストーリー:アリシアティルダ・スウィントン)は物語論の研究者。学会でイスタンブールに来た彼女が古道具屋で買った瓶を開けると煙の中から大男(イドリス・エルバ)が現れる。ジン(アラブの精霊・魔人)だった。ジンは3つの願いを叶えるという。そうすれば彼も呪いから解放されるのだ。でもアリシアには願いもない。ジンは自分の3000年の歴史を語りだす.....

フュリオサの監督、ジョージ・ミラーの2022年公開作。次作『フュリオサ』が奇妙に口承文学っぽい語り口になっている、その予告というか監督の宣言というか、メタ的な物語論的ラブストーリーだ。おおくの映画の物語構造はピュグマリオン型とかオイディプス型とかオデッセウス型とかいうように神話の構造がベースになっている(と言える)し、ミラーは特に古い説話と映画の物語の関係に意識的だった人だからね。

出演者が語る物語を観客が見るタイプ、『ユージュアル・サスペクツ』『ニンフォマニアック』とかある。本作も大きくはその構造だ。トリッキーな語り口じゃなく、テーマが「物語の役割ってなんだ」と正面から取り上げているところがメタ的なのだ。

主人公アリシアは物語の外にいる存在だ。いつの間にか研究者としてあらゆる物語を外から分析する人になった。研究者でなくても、自分が興味あるものについてはずっとしゃべれても自己紹介になると話すことがない人っている。自分の物語がないとも言えるし、価値を感じられないとも言える(延々とたいして面白くない自分語りができる人っているでしょう?)。

ジンは物語を語る側だ。本来はやっぱり物語の外にいるべき人なんだろう。自分を「ファシリテーター」と呼び、相手の願いを叶えるのが能力だ。それって相手の物語を成就させる裏方みたいなものだ。でもジンはその相手に恋したりしてしばしば物語に入り込んでしまう。

本作のストーリーはそんな、ある意味物語の傍観者だった2人が自分たちの物語の主人公になることを選ぶお話だ。それとストイックな初老の女性風アリシアのラブストーリーを重ねていて、思ったよりお花が咲き乱れていたのがちょっと意外だった。

映画作家にも自分語りタイプ、自伝的だったり自分の代弁者が主人公の話を作る人、関係ない話のようでいて自分の幼少期のトラウマとかが濃厚に出る人もいる。ミラーはどうだろう、自分をむき出しにするタイプには見えないけれど、このお話では自分の物語を紡ぐ幸福を描いている。