殺人の追憶

<参考>
1986-91年に起こった未解決の連続殺人事件をもとに、それを追う刑事側から描いたフィクション。
この映画は不思議な重量感がある。重さって不思議だ。役者でも重量感がにじみ出る人、それがない人がいる。体が大きくても、年齢を重ねていても、軽い役者は軽い。映画もそれと同じで、ビッグバジェットの大作でも、やたら壮大な物語でも、軽い映画は軽い。役者は重量感のある映画の大きな要素だろう。主演のソン・ガンホは今の日本にいそうでいない重々しい顔つきで、体も厚みがあって、日本人の俳優には最近見ないタイプの映画的存在感を持っている。かつての佐分利信みたいだ。彼が演じる田舎刑事は、映画の序盤ではあまり自分に疑問を持たないタイプの人間。後半に行くにつれて悩み、どことなく思慮深い人間に成長していくように見える。
画面も重々しく、暗い。ソウル近郊の田舎町が舞台のこの映画、屋外シーンの多くが夜なので(もちろん意図してだろう)、そもそも暗いシーンが多いし、夜景の光も少ない。唯一光っているのが進出してきた工場のプラントだ。あとは田舎町特有のおおいかぶさってくるような闇が画面を満たしている。店や室内は電灯で照らされているが、すべてがわびしい光で、かえって周囲の暗さが意識される。
この暗さは政治状況の表現でもある。『グエムル』でも書いたように、韓国の最近のヒット作は、近過去の紛争や事件を題材にしたものがやたらと多いが、この映画でも舞台になる1980年代後半は軍事政権末期の時代だ。1987年に盧泰愚民主化宣言を行うが、ソウルオリンピックを目前に、抵抗運動が激しかった時期でもある。ポン・ジュノ監督は基本的に権力側に批判的な香りのする作家で、この映画でも警察の違法な捜査をあらわにし、軍の指令によって町中の電気が落とされて真っ暗になるシーンを入れて、人々の上にのしかかる権力の重さを暗闇に重ねて描いている。
1980年代後半といえば、せいぜい20年前にすぎない。批判的に見直すにはまだまだ生々しい時代だ。日本で20年前の時代性と向きあうというと、『バブルへGo!』のヌルい描き方を思い出してしまった。ある程度シリアスに日航機事件を取り上げた『沈まぬ太陽』は、あれだけ制作に苦労したわけだ。関係者の多くがまだ現役であろうこの時代、この映画のスタンスはある種の告発といってもいいだろう。ただし、単純に監督にジャーナリスティックな勇敢さがあるということなのかどうかは、ちょっと分からない。

さてストーリーは、田舎の刑事のもとに、ソウルで活動していた若い刑事が赴任してくる。最初、二人のキャラクターの対立構造はまるで図式的なもの。田舎刑事はカン=人を見る目に自信を持ち、怪しい容疑者はとりあえず逮捕して拷問めいた取調べで自白を引き出すスタイル。もちろん違法のはずだ。若い刑事は見るからに都会的で、データ分析を重視する、非暴力的な刑事。田舎刑事たちは「都会モンに地元のなにが分かる」式の反発を見せる。しかし刑事たちの読みをまったく外しつつ殺人は続き、見えない犯人に追い詰められた二人はだんだん渾然一体となっていき、やがて都会出身の刑事は理性を失って暴力性に支配され、理性をたもった田舎刑事に救われるという逆転がおこる。犯人かと思われた青年は、そんな刑事たちのだれよりも冷静で知的に見え、一見暴力から遠いように見える。

物語はわかりやすいカタルシスとは無縁で、連続殺人も、被害者の女性たちにそれなりに共感させてから、無残に殺されるシーンを見せる繰返しなので、観客も刑事たちのやるせない無力感をいやでも共有させられる。、それにずっと低音で鳴り響くような圧制と田舎町のどんよりした空気がもたらす暗さ、ところどころで効果的に降る夜の雨などがあいまって、なんともいえない重さをかもし出している。殺された女性たちも、わざわざ妙にリアルな特殊メイクをした死体をきっちりと写すという、どこかクローネンバーグのネクロフィリア的センスを思い起こさせる撮り方だ。しかしこういったあれこれが、一歩踏み込んだ映画的強度になっている気はする。

オーバーアクト気味の韓国映画の中では基本的に描写は抑えめで、たとえば『オールド・ボーイ』とくらべると無意味な演劇的誇張は少ない。そんな中に妙なお笑いシーンや、なぜかいつもドロップキック気味に入ってくる暴力刑事、かつての松田優作みたいな効率の悪そうなパンチなど、ときどきB級アクション的テイストがある。ただ全体にはかなり引き締まった、ビターな犯罪映画だといっていいだろう。
結論。『善兵衛の<甘い映画は見てられないぜ!系>にはOK!』