ツリー・オブ・ライフ


<予告編>
この映画、1年くらい前にみた。それから最近になってもう1度みた。ものすごく傑作に思えるかというとそうでもないし、すごく好きなタイプかというとそうでもない。ただ不思議とずっと頭の中にある。監督テレンス・マリックが自分の父と弟との相克を半分自伝のような形で描いたこの映画、いわれると作家のひりひりした痛みが見える気がするし、そう思うとなんだか自分の家族との記憶まで掘り起こされるみたいだ。子供から見るとなんだかずれた厳しさとか、ピアノを弾いていたところとか、自分の父にもかさなるところがあったしね。
監督は、家族の記憶を聖書の世界のなかに組み込んで、ひとつの象徴的なものがたりに昇華させようとする。映画の最初にヨブ記の一節があらわれる。その枠組みで見てくださいねということだ。そして特撮界の大ベテラン、ダグラス・トランブル(『2001年宇宙の旅』や『ブレードランナー』のVFX担当)と組んだ創世シーンになる。これの評価はむずかしい。簡単に言うと見立てなのだ。始原の宇宙で星間ガスなのか星雲なのかもやもやと漂っている。これは何かのケミカルが拡散する様子を撮ったものらしい。その後も原始海中生物の誕生を、シュモクザメとかの映像で象徴したり、太古の森林の発生を針葉樹の巨木の森でおきかえたりする。全部CGでこなせば分かりやすくはなるけれど、そこらの教育映像のアップグレード版になる。だから監督はほどほどにリアルでありつつ、象徴的な映像をつないで、観客が補完して意味づけすることをもとめている。でもおきかえようがない恐竜はCGを使うのだ。壮大すぎるテーマをひねった描写にたよらず正面から映像にしているところ、そこはすごいなと思いつつも正直なんじゃこらというわきあがる思いとの葛藤もある。とにかく、ヨブ記でいう神による宇宙の創世はこういうイメージカットで説明される。そんな壮大な歴史の末端にぼくたちが、物語の焦点の家族たちがいる。

ところでヨブ記的な枠組みってなんだろう。ぼくはクリスチャンでもないし神学にそんなに興味があったわけでもない。単純に文面から読取れる神は、あがらいがたい絶対的な運命が人格化したような存在だ。サタンにそそのかされて敬虔で善良なヨブにひどい試練をあたえて不幸のどん底に突き落とし、彼が苦しみの中で「自分は信仰に反することはなにひとつしていない。それなのに…….」といいはると唐突にあらわれて、絶対的な神と人間のちがいを見せつけ、お前には世界の成り立ちなど知りようがないと宣言し、ヨブを一も二もなく屈服させる(最後には今までの不幸を埋め合わせるように過剰にむくいる)。
「善良な人間に理由もなくおそいかかる試練」(正しく生きていればいつか幸福になれる…..なんていう「徳を積む」思想の全否定だ)としての不幸という題材は、物語のモチーフになりやすい。最近でいえばコーエン兄弟の『シリアスマン』がストレートにそうだ。映画のなかでは母のモノローグで「神の恩寵に生きる人は他人に軽んじられ、嫌われることもうけいれる」といわせている。他人の評価というところまで何かをコントロールすることを手放すのだ。でもあれだね。これを無慈悲かつ壮大な大自然におきかえれば、たとえば非キリスト教的なディープエコロジストの思想ともそんなに違わないんじゃないか。

さて、家族の話。マリックは父親と母親を神=運命に対するふたつの立場の象徴としてえがく。母(ジェシカ・チャスティン)は神の恩寵(grace)のもと生きる人だ。威圧的で、なんとか世の中でうまくやりたい父(ブラッド・ピット)は世俗(nature)に生きる人だ。母はほとんど天使として描かれていて、ひたすらにうつくしく、邪心がなく、まちがいもおかさず、つまり少し生身の人間としての濃度がうすい。ドラマは父親を濃く、リアルに描くことに集中している。父親役ははじめはヒース・レジャーにオファーされていた。どっちにしてもおやじおやじした役者じゃないけれど、その父はなかなかに厳父だ。ただし、いまひとつ筋が通っていない厳父だ。なにかの思想はある。でもそれが息子たちへの教育として現れると、ただ絶対服従をしいたり、草取りをやたら厳格にさせたり、急にボクシングを仕込もうとしたりと一貫性がないように見えるのだ。だから息子たちは父を憎むようになる。長男が主人公であり、監督にとっての「自分」だ。長男はだんだんと反抗的になって、しかも弟に妙にサディスティックな接し方をするようになる。このときの弟の表情が絶品というしかない。思慕と恐怖と混乱と不安の微妙なゆれうごきがにつたわってくる。悪におちかけた長男も少しずつ成長し、家族の物語のシーンは、父が仕事で挫折して、息子たちへの接し方を考え直すところで終わる。

それを現在から回想するのが主人公(ショーン・ペン)だ。物語は初老になった彼が父親への思いから、最後はどんなふうに救われるのかというふうにすすむ。でもショーン・ペンはこの役には不満をもらしている。監督から役の説明もないし、脚本を見ても観客への説明がなにもない。なにをどう伝えるんだよ?という思いがあったんだろう。ペンは一度『シン・レッド・ライン』で監督と仕事をしている。その時はずっとわかりやすいキャラクターだったね、たしかに。この物語の、彼の救いもすごく象徴的なものでしかない。くわしくは書かないけれど、『ライフ・アクアティック』でいうカーテンコールに近いイメージだ。けっきょく、ごく私的な家族のものがたりを聖書的な世界の歴史のなかで意味付けたこの映画は、いまひとつダシと具たちが渾然一体となりきっていない鍋ものみたいに感じられるのだ。
それでも独特の魅力はあるんだなあ。まちがいなく何かは残った。叙情…..かもね。庭のオーク(ナラ)の巨木もその下での生活も風景も、いつもどおりみずみずしく撮られている。撮影のエマニュエル・ルベッキ(『ニュー・ワールド』も彼だ)が言っている。「監督にとっての映像は、演技や脚本を分かりやすく見せるためのものじゃない。一瞬の感情をとらえるためのものなんだ。だから映画は実体験に近い物になる。ぼくの言葉でいえば、なにかの香りみたいに記憶のトリガーになるものだよ」…それはすごく良く分かる。ファミリーアルバムを見ている感覚に近いのだ。さっき、母親はキャラクターとしてうすい、と書いたけれど、じつはこういうストーリーのためじゃない映像のなかで、母への思いとか、母が与えてくれる感覚はすべて伝えられている。監督は脚本とドラマのメインを父親に振り向けて(つまり世俗だ)、映像と音楽、つまり感覚的な記憶のなかに母親(神の恩寵)を表現した。そういうことだろうと思う。