デトロイト


公式
ストーリー: 1967年、デトロイト。黒人コミュニティと治安機関の緊張感は限界に近づいていた。臨界点に達した群衆は火を放ち、商店の略奪をはじめる。市警だけじゃなく州軍やとなりの州警察も投入されて街は戦場のようになる。でも少し離れたシアターではモータウンの黒人シンガーたちのステージに白人も黒人も盛り上がっていた。ある夜、デビューしそこねた若いシンガーが騒乱を避けてモーテルに部屋をとった。深夜、一発の銃声をきっかけにモーテルは惨劇の舞台になる…

ぼくには年代ごとに自分の目を開かせてくれた映画がある。『ドゥ ザ ライト シング』は間違いなくその一本だ。ブルックリンの黒人やイタリア人たちの日常がポップに描かれて、単純に楽しんでいると、異様な暑さのせいか、いつの間にか狭い街のテンションがぎりぎりと上がっていく。それが臨界を超えたとき…スパイク・リーの頭の中には本作で語られた世界があっただろう。
そして本作の舞台、デトロイトイーストウッドの『グラン トリノ』では元の住民がほとんどいなくなり、まともに街を歩けなくなったデトロイト郊外が舞台になっていた。もちろんその頃は中心街は中流の白人が住むようなところじゃなくなっていた。デトロイトから 50kmくらい、フリントという街がある。ここも日本の都市計画関係者が視察に行くくらい、全米屈指の「人がいなくなる街」だ。市では人が減った分を「グリーン」な場所に変えていってコンパクトに作り直そうとしている。話を聞くと意外に重要な役割を果たしているのが教会だ。近隣の核なんだよね。


さて本作。アカデミー2018ではノミネートゼロに終わったけれど、いやいやどうして。ちょっと前に見た『スリービルボード』とつい比較すると、11年前にオスカーを争った2本を思い出す。コーエン兄弟の『ノーカントリー』とポール・トーマス・アンダーソンの『ゼアウィルビー ブラッド』だ。作品賞を勝ちとった『ノーカントリー』、暴力的でありながらコーエン兄弟独特の衒学的で淡々とながれる空気がぼくも大好きな映画だ。『ゼアウィルビー』は、完璧な構図と、圧倒される重厚で古典的な印象のある、これまた忘れられない1本だった。
『スリービルボード』が前者だとすると本作は後者、というように自分のなかでペアで記憶されるだろう。重量感、まっすぐこちらに迫ってくる圧倒は本作が上だ。『スリービルボード』がコンパクトで寓話的な世界に社会問題を投影したのとは対照的に、本作はそれをドキュメンタリー的にそのまま描いて体感させる。騒乱シーンもリアルで、編集の切れがよく、不要な情緒を紛れ込ませない、じつにクールな描写だ。なんていうんだろう、作り手の「強さ」を感じるんだよね。



いわば歴史の闇の再現ドラマだから気持ちいい展開もどこにもない。それこそ主要なキャラクターたちにとってささやかなカタルシスもホッとするシーンも用意されていない。中盤の監禁・暴力的尋問のシーンはたぶん被害者役も加害者役も演者にとってもきつかったはずで、公式ページでは1番冷酷な警官役のウィル・ポールターは撮影がいかに一体感のある現場だったか訴えている。そして、秩序をまもる側に踏みとどまったはずの警備員、ディスミュークス(ジョン・ボイエガ)にとってもこのときの世界にはまったく光がない。
お話のすこし希望がみえる部分は、若い黒人たちのボーカルグループ、ザ ドラマティックスのデビュー前夜の物語だ。10代の彼らはメジャーなステージ、レコード会社との契約までにあと一歩のところにいる。街の一方は戦争状態になっていても、同じ夜にきらきらした劇場では黒人による上質なエンターテインメントが上演されているのだ。メンバーの若者の2人はステージの帰りに騒乱地区からすこし離れたモーテルに泊まる。黒人たちとふらふら遊びに来た白人の女の子がいちゃいちゃしている世界だ。
この世界の片隅で』じゃないけど戦争中でも本当にそれが蹂躙しにくるまでは日常生活はある。騒乱のすぐ隣ではポップな日常が同時に進行しているのだ。でもほんとうに無関係なわけじゃない。ステージにも暴動は影を落とす。2人がモーテルに行くのも帰りのバスが騒乱に巻き込まれるからだ。モーテルの黒人たちの会話もいつしか警官の暴力の話題にうつっていく。そして深夜、アジールだったはずのモーテルに警官と州軍が押し寄せる…
ラスト、夢を見られなくなった1人の若者がドアを開けたのはやっぱり教会だった。かれは聖歌隊の歌手になる。歌うことで少しだけれど給料がもらえ、彼は生き続けることができるのだ。