スリー ビルボード


<予告編>
ストーリー: ミズーリ州の地味な街のさらにかたすみ。だれも見向かない3つの看板(ビルボード)。ずっと放っておかれた看板の管理会社に1人の女ミルドレッド・ヘイズ(フランシス・マクドーマンド)があらわれる。自分の娘がレイプの末に殺されたのに動きが鈍い警察のケツを引っぱたこうと強烈なメッセージ広告を出すのだ。ネタにされて頭が痛い警察署長(ウディ・ハレルソン)は、他にも重い悩みを抱えていた。間抜けで暴力的な部下ディクソン(サム・ロックウェル) はそんな悩みを知るよしもない。ある日署長は最愛の妻と娘を連れて河原にピクニックに行き…

才気あるイギリス監督が撮るアメリカの名もない街の名もない人びと。その中にうっすら見えるなにか。そして強面キャラクターの裏面として仕込んだ「秘密」…。 語り口もテーマも違うけれど、そんな共通点がある『アメリカン・ビューティー』をぼくは思いだした。なんていうのかな、観察してるわけだ。他国の社会をね。テーマがあぶり出されて、寓話的な、ちょっと抽象的なストーリーに仕上がる。そんな距離感のせいか、見ているぼくは共通した「重みのなさ」みたいなモノを感じる。田舎町を描いても埃っぽくも汗臭くもない。あと聖書モチーフが濃厚に見える感じはコーエン兄弟っぽくもある。マクドーマンドが出てるからだけじゃなくね。
お話はミズーリ州の田舎町。中心街らしい中心街もない、むやみに空が広い街だ。でも中西部の大平原じゃない。ちょっとした起伏があって、主人公は小高い斜面地に住んでいる。斜面の下には街の外から繋がる道路があって、3つの古ぼけた看板が立っている。舞台を田舎の小さな町にしたことで物語の寓話性はさらに増した。現在性のある社会問題を濃密に散りばめてあるけれど、そのままでなく小さな町の小さなエピソードに投影しなおしたのだ。


登場人物たちのキャラクターはじつに明快に書き分けられていて被る部分がほとんどない。ヘイズ、署長、ディクソンの3人はもちろん、看板の管理会社の若者レッド、ヘイズの息子、別れた旦那とその彼女、広告の制作スタッフ、せいぜい10人くらいのセリフのあるキャラクターたちはそれぞれドラマ上の役割を持っていて、いっさい無駄がないのだ。田舎町を舞台に物語世界を限定したため、その配置も無理がなくなった。「あたりまえじゃん、キャラの書き分けなんて」て思う人もいるでしょうけれど、本作みたいな群像劇にしてはすごく効率的な配置なんじゃないかな。ムダな端役みたいのがほとんどいないのだ。
さて本作のヒーローは、まずはヘイズ。ん、ヒロインじゃないの? …違います。保守的な田舎町で、ヘイズは女性であるうえに有力者(署長)を非難しているから、とうぜん有形無形のプレッシャーを受ける。嫌がらせのこともあれば暴力すれすれのこともある。 田舎の集団的な暴力性に女性が犠牲になる話…すぐ思い出すのは『ドッグヴィル』だ。でも本作の味わいは違う。ヘイズはプレッシャーに耐え続ける女性じゃないのだ。
なにか言われれば倍の切れ味で言い返し、相手の顔色を変えさせる。それだけじゃなく、女性の大多数が不可避的に直面する「フィイジカルでは正面対決できない」点も軽がると乗り越える。基本的に圧迫を受けるとその場で打ち返すリズムなので、『ドッグヴィル』みたいな重苦しさがなくてむしろ爽快である。たぶんそれが一種の軽さも生み出しているだろう。

暴力で男に対抗できるヒロイン。むかしだと『ファスタープッシーキャット・キル!キル!』的なキワモノにはあったしそれらへのオマージュでもあるタランティーノのもろもろ(これとか)もあった。でもタランティーノはワインスタイン問題とウマ・サーマンの告白とで素直に楽しみづらくなっちゃったなあ…
それはともかく、さいきんの映画業界なりのバランス感覚だと思うけれど、女性ヒーローモノは目立つ。まあ、2017年の激震を考えれば、なんだか表面的なとりつくろいに思えなくもないけれど、でも単純に物語としてみていてもあたらしさを感じる。『マッドマックス フューリーロード』『ミッションインポッシブル ローグネーション』『キングスマン』も敵役だけど女性殺し屋がいたね。あとは未見ながら『 アトミック・ブロンド 』『ワンダーウーマン』…本作もそういう位置付けを狙ってもいるんだろう。現在性がある社会問題をめくばせよく取り込む本作だ。「黙っていない」女性を、ちょっと戯画化して中心にすえた。これ、鉄の意志をもつ父親に置き換えればいくらでも先行作品はあるでしょう。
本作は途中から群像劇に変わっていって、最後はヘイズと意外な1人のバディムービー風の空気さえかもし出していく。いろんなキャラクターの、最初に観客に与えた印象をつぎつぎ変えていくつくりだ。だから、後半に出てくるいかにも正義の側にいる人格者な感じの黒人のおじさん、かれがいつ悪に転ぶのか…? そんなよけいな読みまでしながら見ていた。