リアリティのダンス


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アレハンドロ・ホドロフスキー。当ブログでは代表作はおいといて、『サンタ・サングレ』を紹介している。あと本人の作品じゃないけれど『ホドロフスキーのデューン』は彼がどんな感じの人だったのかよくわかるドキュメンタリーだ。バイオはこちらをどうぞ。ホドロフスキー日本語版公式サイトだってあるんだ。で。この映画は彼の自伝をもとに彼自身が、しかも自分の息子たちをキャスティングして撮影した自分ムービーだ。であるから、ホドロフスキー作品をある程度みていて、それなりに関心がないとほぼ退屈な映画だろう。予備知識もなく見たけどなんとなくたのしかった、というぐあいになればハッピーだけど、どうだろうなあ。東京でトータル27人くらいいただろうそんな人たちにコメントを聴いてみたいような気もする。そのうち26人は連れがホドロフスキーのファンだろうから、彼(たぶん、確率的に)に気を使って「なんかよくわからなかったけど、景色がきれいだったと思いました〜」といってくれそうだ。


自伝といいながらどこまで事実なのかはよく知らない。読んでないし。ホドロフスキーが書いた「自伝」という作品だったと思った方がいいのかもしれない。チリで生まれたウクライナユダヤ人の商店主の息子、アレハンドロ。父は共産主義者で、雑貨店を経営し、店の客引きのためにドゥワーフをやとっていた。父はむかしサーカスにいて、かつものすごくマッチョに息子を仕込もうとする男だ。ひっぱたいてみたり麻酔なしで歯を抜かせてみたり。いっぽう母は…….これはなんだろう。母はものすごく巨乳であり、かつソプラノ歌手である。あまりにも歌手であるため、彼女のセリフはすべてソプラノの歌で表現される。母は金髪の祖父をしたうあまり、ほんとうは黒毛ちぢれ毛のアレハンドロに金髪ロン毛のヅラをかぶせているのだ。このあたりがなんのカリカチュアなのかはよくわからない。
その後も、さまざまな表現主義的なシーンや登場人物が画面を彩るだろう。後半、父が流転しはじめ、家族から遠くはなれた父はキリスト教的な啓示をうけて、けっきょく家へ戻ってくる。映画のなかでは子供時代のままのホドロフスキーは、なにかを目撃し、両親によってなにかを体験させられるがわで、自分でものがたりをおこす段階じゃない。ビジュアル的には(特に金髪ヅラ時代は)すごくアイコン的だが、キャラクターとしては受け身なのだ。

この映画を見ると、一定数のひとがこのことばでとりあえずまとめたい誘惑にうずうずするはずだ。南米のある種の芸術作品になにかといえばかぶせられるワード、そう「マジック・リアリズム」。出ました。南米といえばマジック・リアリズム。すわりがいいんだよね。それ以前に、ガルシア・マルケスがちょっとブーム的に読まれたけっか、ある世代のひとにとって中南米の文化的精神ってこういうものなんだ….と刷り込まれたきらいはある。あるよね? ボルヘスだってバルガス・リョサだってベタなリアリズムを越えたイマジネーションの広がりはある。そしてこの映画も。なんというんだろう、ある種のリアリティをそなえた物語のなかで、登場人物のふるまいやおこる出来事に、「これがリアリティ」とぼくたちが思うような抑制・規制がないように見えるのだ。そこに自由を感じるし、荒唐無稽にも感じるし、想像力のひろがりも感じる。でも同時に、作り手の想像力やクリエイティビティのリファレンス(参照元)もひしひしと感じるところはある。
この映画にでてくるいろいろなモチーフ。コアなファンとはいえないぼくでも「あー、ホドロフスキーっぽいなあ」と思うようなネタがちょこちょこと出てくる。創作の材料ってあんがいそういうものかもしれない。システマティックに時代ごとのあたらしいネタ探しをするタイプの作り手でもないかぎりは、どの段階でか自分にしみついたモチーフが繰り返されるのだ。この映画はそういう意味でもホドロフスキーのまさしく自伝なのかもしれないね。