エターナルサンシャイン

<予告編>
ストーリー:ジョエル(ジム・キャリー)とクレメンタイン(ケイト・ウィンスレット)は何年か前にビーチパーティで知り合ったカップル。パーティーの盛り上がりになじめなかった2人はすぐに気があった。でも楽しいときはすぐに終わり、だんだんと2人の心は離れはじめる。クレメンタインは決意して、特定の人についての記憶だけを消すサービスを受けた。ジョエルの記憶を消したのだ。それを聞いたジョエルは仕返しのつもりで彼女の記憶消去を申し込む。検査が済むと、オペレーターが家にやってきて、寝ている彼に装置を取り付ける。記憶消去が始まった。かれは途中で気がつく。心のなかのクレメンタインを失うなんて、耐えられないことだったのだ。でも現実の彼は眠っていて動けない。夢のなかのジョエルとクレメンタインの逃亡が始まる....

チャーリー・カウフマンの作劇はまず物語の根幹になる設定がある。思考実験みたいな設定だ。かれの関心事はいつも、個人の意識や認識しだいで世界がまったく違うものになる、というあたりにあるような気がする。『マルコビッチの穴』は他人の意識に侵入するし『脳内ニューヨーク』『アノマリサ』もそうだ。
本作では「特定の人についての記憶が消去できたら?」というアイディアをふくらませて、『サムシング・ワイルド』『500日のサマー』ふうなちょっとエキセントリックなサブカル系女子と内気な男との恋愛ストーリーにこの設定を乗せてみる。作り手たちはすこし先に公開されたクリストファー・ノーランの『メメント』を気にしたらしい。どちらも主人公の記憶が消え、物語の時間軸は操作される。でもこの2作はまったく違う。むしろ『500日のサマー』に少し似ているかもしれない。本作の中心は『サマー』といっしょで「ぼくの中の彼女は」だからだ。過去の記憶の中の彼女が、時間軸をいったりきたりしながらあらわれる。
離ればなれになり、お互いの記憶からさえ消えてしまった2人。本作ではもうひとひねりして、その後を見せてくる。新しい記憶をもう一度つむぐことが2人にはできるのか...的なね。「記憶の消去」を受けたもう1人を出してきてさらに物語はツイストする。主人公の2人と、記憶消去の会社の4人、社長と受付嬢(キルスティン・ダンスト)、2人のオペレーター(マーク・ラファロイライジャ・ウッド)それぞれに重みがあり、主人公の内面世界の外側をきちんとつくりあげている。記憶を消去するオペレーターたちが無機質で人間味がない人たちだったら…...たとえばハイテク大企業ということにするパターンもありえる。ディストピアSFとかでよく見る、もっとありがちなストーリーになったはずだ。『トータル・リコール』も(あれはあれでおもしろかったけれど)記憶の操作をするのは大企業のイメージだったよね。でもここでは町医者みたいなベンチャー企業だ。2004年の映画なのにカセットテープなんか使っていて、つまり手の届かないハイテクの扱いじゃないのだ。

現実の大事な人を失うこと、それに心のなかの大事な人をさらに失うこと。人にとって喪失は2段階ある。彼本人が頼んだことではあるけれど、心のなかの喪失にたいして相手のクレメンタインは無力だ。だって失われ、消えていく存在なんだから。そのはかなさが得もいわれずいい。
コメディ演技を封じられたジム・キャリーはセンシティブなおじさんを演じ(存在具合は青年的)、髪の色を時期ごとに変えるケイト・ウィンスレットはあるタイプの女の子の雰囲気をいい感じに出している。そして『メランコリア』では裸で青光りしたキルスティン・ダンストははじめ端役風だったのがみるみる重要人物になり、最近の味わいおじさん役の筆頭格(これとかこれとかな)マーク・ラファロが1世代若い役で出てくる。発想の新鮮さと恋愛もののせつなさのバランスがいい、カウフマンものでは見やすい一本だ。