ウエスタン(Once upon a time in west )


<参考(imdb)>
これまた名作中の名作。しかもぼくはレオーネ作品はビギナーだ(あとは『夕陽のガンマン』くらい)。だから手短かにしとこう。
映画の中で表現される「格好よさ」、もっと範囲をしぼると「男の格好よさ」というのはいくつか祖型がある。この祖型は国境を越えて共有されるから、そのクラシックを描いてみせた映画は世界中の映画作家のお手本になる。日本映画にも祖型というかモデルはいくつかまちがいなくあるだろう。で、この映画もそういうモデルの一本だ。
■対決の前でもリラックス
たとえば有名なファーストシーン。見た人にはいまさらだが、3人のガンマンが西部の駅にやってきて何かを待つシーンだ。一仕事の前の雰囲気だが3人とも余裕しゃくしゃくで終始ゆったりと動く。でも駅員の老人のあしらい方など暴力にも違法行為にもなんの抵抗もない雰囲気をぷんぷんさせる。レオーネならではの異様な顔のアップ(「風景としての顔」と呼んでいる)では、毛穴や無精髭が容赦なく画面をうめつくして、小ぎれい系の美学とは真逆の価値観であることを最初から納得させられる。彼らのゆったり感。音楽もなく風車のきしみがわびしさを強調するみたいに鳴り続ける。もちろんこの後に緊迫した対決があるだろうことは見ている方も十分に予感しているわけで、だから映画自体のリズムとしても格好よく感じられる。この種の、対決を前にしたゆったりしたリズムやリラックス感は、すぐ思いつくだけでもタランティーノ北野武ジョニー・トーに受け継がれただろう。
■悪いけど説明しないよ
もう一つの格好よさは、セリフの「非説明的」なところだ。主役のハーモニカ(チャールズ・ブロンソン)のセリフはほとんどほのめかしや暗示みたいに聞こえる。いろいろ言っているようでも実質的には「俺はこういう男さ」というメッセージしか伝えていないようだ。おなじ匂いのするガンマンたちとの言い合いになると、会話は相手の面子のつぶしあいのゲームになる。『ロング・グッドバイ』のP・マーロウのへらず口にも通じる、直接的な表現は避けながら相手をコケにし、相手の迂遠な表現を瞬時に理解して短く返す。ただの罵倒じゃダメで、なんともいえない「それ」を持っているかいないかみたいなところを持って回った言い方で表現するわけだ。ある一線を越えるとどちらかが殴りかからないわけに行かなくなる。もちろん余裕をなくして殴りかかる方が負けだから、どちらもできるだけにやにやしながら余裕を見せなければいけない。ルールも「それ」も共有していないと成立しないゲームだ。
「プロフェッショナルたち」は戦う相手であると同時に「一般人」には理解できない高いレベルでの価値観や美学の共有がある...あらゆる戦いの物語でおなじみだ。『ライトスタッフ』も宇宙開発史に乗ったそういう物語だった。ライバルたちは暗黙のうちにルールを守った対決をしないわけにいかないし、それはある「間合い」の勝負になる。ガンファイトでも居合い抜きでもそうなる。内田樹が、武道家は修練をつんでいくうちに相手との身体的な共鳴が生じて、たがいの身体運用の精度をあげていく、的なことをよく書いている。
ただこの選民意識的なプライドをベタに説明したり賛美したりすると、どうしようもなく古臭いナルシシズムになる。ましてや「戦士の美学」みたいなのをナイーブに言葉に出して賛美してしまうと...出来の悪い戦争映画でよくあるでしょうそういうの。そこをいかに直接的に説明的に見せずに、削ぎ落した表現で感じさせるかというあたりが格好よさの追求なんだろう。ちなみに、映画はわりとストーリーや設定が複雑だからか、中盤でハーモニカもふくめてみんな説明的になって設定を理解させるシーンがでてくるのがおもしろいんだけどね。

■土ぼこりが基本トーン
あとはこの土臭さだろう。「荒野」ね。男たちの顔は浅黒く、無精髭がめだち、服は埃っぽくてよれよれだ。フランク(ヘンリー・フォンダ)ひきいるギャングの一味は、ネイティブアメリカンが古くから住んでいた岩壁の洞穴をねじろにしている。この西部劇特有のアウトドア美学は、降雨量の少ない中西部の内陸地帯の風土と関係が深い気がする。砂漠的文明。そこでは「移動し続ける」という掟も課せられる。じっとしていることは死を意味するからだ。でも彼らは荒野にい続ける。ガンマンたちが着ている、丈の長ーいダスターコートはそのシンボルだ。森林の発達したところだと「森の人」風になってきて、なにか別の生命とのふれあいみたいなアニミスティックな要素が入り込んでくる。西部劇リメイク『トゥルーグリット』は森の中を抜ける西部劇だったけれど、冬枯れのドライな森を舞台にしていた。あれ、緑が濃い季節の森をさまよっているとかなり雰囲気が違ってきていたはずだ。
黒澤映画はもろにこの美学を取り入れている(レオーネの、じゃなく西部劇クラシックのね)。湿潤な日本の森をあまり想像させない「荒野」感あふれる宿場町のような場をつくる。都市からは遠くはなれているけれど、ゆたかな自然に抱かれるという雰囲気でもない。そこに埃っぽいヨレヨレのタフガイ=浪人を登場させる。ただ、これ余談だけど、日本の時代劇のメインの時期、つまり江戸時代は日本の森林は今ほど濃くなかった。これは逆説みたいだけど、今よりずっと森林の木材を利用していた時代だから、特に里に近い山はしばしばハゲ山で、村のルールを作って伐採を制限しなければならないくらいだったというのだ。それに草原もずっと多かった。草原は、燃料や肥料や屋根葺きの材料を取るのに必要で、かならず里にはひろびろとした茅場があったし、馬を放牧する土地も多かったから、そういう場所も一面の草原だったはずだ。つまり黒澤が撮っていたみたいな抜けのいい、ある意味荒涼とした風景も、あんがいリアルだったかもしれないのだ。
ちなみにこの映画、アイコン的な風景はアメリカ中西部のモニュメントバレーでロケし、役者たちが演技する場所はイタリアやスペインの乾燥地帯(カラホラ、アルメリア)にセットをつくった。

■アレはちょっと..
この映画でひとつだけぴんとこないのが、悪役かつ最大のスターのヘンリー・フォンダだ。正義漢の役が多かったスターを冷酷な悪役にフィーチャーしたことがこの映画のポイントでもあり、甘い顔で冷酷にふるまうところが高く評価されているわけだが、まあこれはぼくの好みですね。大スターにもうしわけないが、どことなく間が抜けて見える。ヒロインのクラウディア・カルディナーレの、映画内唯一のラブシーンのお相手がフォンダで(スターへの配慮というか興行的思惑というか…)、撮影時にすでに話題になりすぎていて、撮影現場には大量のUSメディアが入り、あまつさえフォンダの当時の妻が正面に陣取って(!)、クラウディアはものすごく撮影しづらかったという。・・・結局たいして手短かじゃなかったですね